意地悪な片思いーLingerie Magicー


登場する人

 

速水 至

30歳

 

市田 みのり

24歳



 

告白してきたあなたは

ちょっぴりキケンな香り。

 

年下の私を馬鹿にして、からかって、

それでもやっぱりたまに優しくて。

 

好きになんて、

 

絶対ぜったい―――――。

 

 

 

・プロローグ

・クリーム

 サンドイッチの甘い罠

 遠い彼の背中

  ダークな香り

・ブラック

 節約おにぎり

  鼓動の言いわけ 

  白い息の衝突 

・ イエロー

 淡い期待

  誤解のからまわり

 A.M.?P.M.?

 

 

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※別タイトルにて、他サイトさまで掲載させていただいております。

 

 


プロローグ

 

 

「俺と付き合わない?」

 

私よりも後に給湯室に入ってきた彼。

 

「俺もコーヒーいただいていいですか?」

そう先ほど声をかけてきた時と全く同じ口調のそれに、

 

私の目はパチパチと動かされた。

 

 

漂うコーヒーの香り。

給湯室には私と彼以外、誰もいない。

 

何も言えないまま、

とりあえず手に持っていた紙コップを元の場所に戻す。

 

 

「……え?」

 

やっと声が出たとき、彼は私が作ったコーヒーを飲んだ。

コーヒーとは違う、別の苦い香りがした。

 

 

 

 速水 至。29歳。

 

黒い髪、左分けで所々にある長い髪が、彼の目にかかる。

のぞく左目尻には小さなほくろがあって、

身にまとうコーヒーの匂いとか、少しだけ苦い香りが特徴的な大人の人……。

 

「で?

そんな容姿端麗で性格もよくて、

社内で噂にもなるほどの人がみのりに告白してきたと。」

 

「うん……。」

 濡れた髪をふこうと頭にかぶっていたタオルを私は肩にかけ、ベッドに腰かけた。

 

「お願いします!って返事した?」

 

「す、するわけないじゃん!

御見それしましたって言ってすぐ仕事戻ったよ!」

 勢いよく飛び出した言葉と共に、肩にかけていたタオルが勢いよく床へと落ちる。

 

「勿体なーい。

とりあえず付き合ってみればいいのに。」

 今の口調からするに、彼女は電話の向こうで頬を膨らませているのであろう。

 

「…私なんかに釣り合わないでしょ。

それにその時しか話したことないし。」

 

「そうかな~、みのりは考えすぎだよ。

その分これから好きになる可能性だってあるじゃん?

 

最初から決めつけるのはよくないって~、連絡先だけでも明日聞いてみたら?

話したことないのに、

どうして好きになったのかとか理由も気になってるでしょ?」

 

「う~ん。

そりゃなんで私にそんなこと言ったのか気になってるけど……。」

 渋った声を出して一旦言葉を切ると、私はまた口を開いた。

 

「でもそういう人気の渦中にある人、

私が苦手に思ってること遥なら知ってるでしょ?」

 

やれやれまた始まった。

そう言いたげな短いため息が、携帯の向こうから一つ。

 

「みのりはそういう子だよね、昔なじみの私はよく知ってる…。

 

だけどね、

多くの人に好かれているみんながみんな、あの人と同じって訳じゃないよ。 」

 彼女の低い声が私の胸の中にずしんと響く。

 

「まぁそれも昔の話だね。」

 

私はうん。と短く返事する。

 

 

「速水さんのこと苦手に思ってるのは分かったから、

対応だけは間違えないようにね。

 

みのりはいろいろ不器用なんだから。」

 

「……ありがと、遥。」

 床に落ちたタオルを私は優しく拾った。

 

 


クリーム

 

クリーム(アイボリー)色:

 

ステイタスを高く見せる。

目○の人からの評価をあげる。

 

サンドイッチの甘い罠

 

 

「……。」

目があった。

 

「……。」

また、目があった。

 

 

 いつも通りの月曜。

告白された金曜からの週末はあっという間に終わり、私は現在仕事に勤しんでいるわけですが……。

 

ちらりとのぞいて、目があったらすぐに視線を外して。

たまたま目があっただけですよ、心の中でそんな言い訳をしながら、

“その人”の姿を、私は朝から確認してしまっている。

 

隣の部署のその人。

部署は違うけれど個人が使用する主なデスクがある部屋は一緒のため、

パソコンの画面脇からその姿は毎日目にすることができる。

 

苦手なタイプだと遥に伝えたのは自分なのに、ばかだ私。

彼のこと意識しちゃってんじゃん。

 

 

あー!仕事しっかりしなきゃ!

これ、明後日までの企画なんだから!

 

顔をぶるぶると振って、私は企画資料をパソコンの画面わきに立てた。

 

 

 

 それから数日彼と直接話す機会はないまま、ただ目がたまにあうだけで、

会議室の整理を最後に、仕事を終えた私はオフィスの扉を開けた。

 

長嶋さん、長嶋さん……はいないと。

 

上司の長嶋さんに掃除が終わったことを報告しようとしたのだが、いるはずの席は空。

パソコンのウィーンという音だけで、長嶋さんだけではなく誰もオフィス内に今はいなかった。

 

誰もいないしついでにゴミ箱の回収ここのもしちゃうか。

手に持ったゴミ袋を片手に、私は同じ部署の人が足元に置いているごみ箱と共同スペースのごみを回収する。

 

シュレッダーの細かなゴミから始まり、紙やら昼食のごみなど今集めているのは可燃ごみ。

それでもゴミ袋にはまだ余裕があった。

 

 

給湯室、掃除したのかな。

 

 

することがないからと私はそこへ向かった。

歩くたび、ガサガサゴミ袋が音を立てた。

 

 

 

 キイときしむ音をたて給湯室の扉をあけた瞬間、コーヒーの香りが広がった。

 誰かが絶えず小休憩をとりにくるここは、いつもその匂いがする。

 

コーヒーの香りが好きな私にとって、仕事中のここは至極の部屋、

それでも今の目的はそれではない。

 

ごみ、ごみっと。 

 

水面台の横に設置されているゴミ箱のふたを開けた。

右側、赤いボディの可燃ごみ。

少量だったため手でつかみ、持ってきたゴミ袋にそのまま入れてしまう。

 

隣に並んでおいてあるペットボトルのゴミ箱はどうしようかと迷ったのだが、

既にゴミ箱一杯だったため、ゴミ箱にしていた袋を取り出し封をして一緒に捨てることにした。

 

 

これですることは済んだ。

あとは長嶋さんに報告するだけ。

 

しかし一向にオフィスに人が出入りする気配がしない。

私は開けっ放しの扉から向こうを覗いた。

やっぱり静かな廊下。会社に一人っきりみたい。

 

一杯コーヒー飲んじゃおうかな。

シンクの上に置かれているコーヒードリッパー。

私に飲んでほしいとばかりにあと1杯分ぐらいしかそこにはない。

 

私はもう帰るけど、今日残業する人には必要だよね。

 

カップに残りのコーヒーを注ぐと、豆を取り出し分量を少なめにそこにいれた。

ドリッパーがカツカツ音を立て始める。

 

そして唐突にだった。

 

「お疲れさま。」

 私の後ろ背に誰かが声をかけた。

 

 

 びくっと振り返った私。

少し藍色がかったストライプ柄の黒いスーツが目に入る。

 

給湯室来るんじゃなかった。

すぐにそう思った。

そう思ってしまう相手がそこにいた。

 

「お疲れ様です。」

 ああ本当この人ビターな匂いがする。

危険な、あやしい、そんな香りが。

 

「長嶋もしかして探してない?」

 彼はそういいながら奥の冷蔵庫前に移動した。

 

「…探してます。」

 

「あ、やっぱり?

ごめんさっきまで下で喋ってて俺がとっちゃってたんだよ。

長嶋も気にしてたよ。」

 何か取り出したのか冷蔵庫のパタンとしまる音が隣でこだまする。

 

「すぐ行ってみます!」

 今だ!とばかりに部屋から脱出しようとした私。

 

しかしすぐに動きが制止する。

 

「…コーヒー飲まないの?」

 

 

彼のその一言によって。

 

ああ、そうでした。

シンクの上のコップに入ったコーヒーがおいしそうに白い湯気をあげている。 

 

「の、飲みます。」

 これをほっておくわけにはいかない…。

 

 

「どうぞ。」

 笑っているのか速水さんの声が少しだけからかい口調。

 

「……。」

 

「何?」

 

「……いえ。」

 若干むっとしながら私はカップを手に取った。

 

彼のからかい口調で分かった。

今の、わざとだったんだ。

 

私が動揺してること見透かして、わざとここから逃げれるようなタネをまいて、

それでもコーヒーがあるから私はそれができなくて。

 

全部わかってて、

「長嶋が探してたよ」なんて逃げる口実を私に。

 

 

 

 コーヒーカップで半分顔を隠しながら隣に立つ速水さんをちらりと覗くと、

彼はもぐもぐとサンドイッチを食べていた。

 

黄色い和紙にくるまれているそれは、すぐに市販のものではないと気付く。

あ、会社前のすごいおいしいって評判の奴だ…。

 

数量限定でなかなか食べれないっていう。

確か中には半熟卵と生ハム、耳つきのパンがふわふわ―――。

 

 

「……ほしい?」

 

「え?」 

 

「そんなにじっと見てくるから。」

 

「いやいやいや!」

 私はあわてて視線を外すとゴクっとコーヒーを飲み込んだ。

 

時間をおいていてよかった、

冷めていなかったら口も食道も今頃ただ事じゃない。

 

 

「俺あそこの馴染みだから特別に取り置きしてもらってるんだけど。」

 速水さんはそういって、最後の一つのサンドイッチを袋から取り出すと

包装紙をくしゃくしゃと手で丸めてそれを差し出した。

 

「回収します…。」

 ボールのようにカチカチに固まった包装紙。

さっきまで掃除してたこともお見通しか……。 

 

 

「忘れ物。」

 ゴミ袋に入れようとした私に、彼は間髪入れず声をかけた。

 

空いた私の左手を彼は掴むと、手のひらの中にサンドイッチを収める。

 

 

「いいですよ!食べてください!」

 あわてて断りを入れる私。

差し出した反動で、中に挿まれている卵がぷりっと揺れる。

 

そんな私も、サンドイッチも彼は知らんぷり。

新しくカップを取り出した。

 

「俺は珍しくないから食べてやって。

ゴミ回収とコーヒーのお礼だと思って。」

 コツンと彼は手に持ったカップを私が置いたカップに当てた。

 

コフッという変な音。

 

 

別にただ仕事しただけなのに……。

納得がいってない私を彼は気にする素振りもなく、私がさっき作ったばかりのコーヒーを注いだ。

 

彼はコーヒーを一口飲んで、顎をくいっと動かす。

食べてってことかな…。

 

「じゃぁ本当いただきますよ?

後からだめとかなしですからね?」

 

くすりと速水さんは笑った。

 

「い、いただきます。」

 

「どうぞ。」

 彼の口元が緩む。

 

+ 

 

もぐもぐもぐ……

 

「お、おいしい!」

 冷蔵庫に入れていたから少しカチっとしてるけど、

それでも市販のものと比べ物にならないくらいふわってしてて。

 

パンについてる焼き目と、切り落とされていないパンの耳が見た目以上にいいアクセントをしている。

お腹が特にすいていたわけでもないのに、ぺろりと私は平らげてしまった。

 

「おいしかった?」

 

「とっても!」

 興奮気味に私は返事した。

 

「あほ面。」

 彼がくしゃりと笑いながら呟く。

 

また悪態ですか…。

そう思いながらもなぜだか悪い気はしなかった。

 

 パンをくれた速水さんは優しい。

ゴミ回収もコーヒーを作ったことを気遣ってくれたことも。

 

でも今みたいに口がたまに悪くて、私をからかってきて

優しいのか意地悪なのか。

 

あの告白も、もしかすると意地悪の一種……だったり。

 

「欲しいときはいつでも言って。」

 洗面台に体重を預けたまま彼は言った。

 

私はこくんと頷く。

 

なくなるコーヒー。

私のも、彼のも。

 

変なの。

二人っきりがすごい嫌だったのに、今は別に、

 

特別に嫌とか逃げたいとか、

 

そういう感情は………うん。

 

 

 

「……餌付けしてるみたいだなぁ。」

 

「え?」

 

「嫌われた動物にエサあげたら懐かれたみたいに。」

 

言っていることが分からず、首を傾げた私に速水さんはふっと笑った。

 

「市田は子犬みたいだよね、キャンキャン吠える。」

 一気にハハハと一人で笑い始めた彼。

ポカーンとする私を一切無視。

 

「もうサンドイッチ頼みませんからご心配なくです。」

 べーっと舌を出したい気持ちだった。

 

 

 空になったカップをごみ袋に入れて私は立ち去ろうとする。

 

「市田。」

 

 私の脚がぴたりと止まる。

 

 

「仕事中はねだってこっち見ないこと。」

 驚いて振り返る。

 

速水さんの口元は緩んだまま。

 

 

「っ。」

 

違う、きっとこれは“これから”の注意じゃなくて。

 

 

告白されて意識して

ちらちらと速水さんを見ていた私を彼はからかって……。

 

 

「も、もう見ないのでご心配なくです!」 

 

な、なんなんだ、なんなんだ。

本当に速水至ってやつは!

 

 

ガサガサ激しく音を立てるゴミ袋。

 

ボールのように固まった和紙を、私はまだ手に持ったままだった。

 

 

 


遠い彼の背中

 

 

 ちらりとのぞく。

 

あ、出勤してる。

 

 

遠目でパソコンに向き合う、彼の後ろ姿を目にいれた。

 

数日たってようやく自然に見始ることができた私。

 

見ていたことを速水さんに指摘された私は意地とばかりに、不自然なほど彼を見なかった。

出勤しているのかしていないのかそれすらもわからないほどに、

とにかく彼の姿を私は見なかった。

 

 

それが功を奏したのかどうなのかわからないけれど、彼とは今では全く目が合わない。

 

でもこれで、

仕事集中できる…よね。

 

 

「市田。」

 

「はい!」

 顔をぐるりと回転させ、長嶋さんの方を見ながら私は席を立った。

 

 

 

デスクに座って自身の仕事に向かっている長嶋さんは、

眉間にしわをよせ、真剣に考え事をしていらっしゃった。

 

凛々しい眉、涙袋が特徴的で

彼の優しい瞳を

私は待っている間何気なく見つめてしまう。

 

パっと長嶋さんが顔を上げると同時に、反射的に私も視線をそらした。

 

「ん、これこの間提出してくれた奴だけど、

追書きしたからそれ参考にもうちょっと考えてみて。」

 

「はい。」

 受け取ったそれはこの間提出した、再来月のイベントの企画書だった。

白い紙面の端に青い正方形の付箋がぺたりと一つくっつけられている。

 

「あと悪いんだけど資料室の整理任せていいかな。

仕事終わって帰る前でいいから。」

 

「分かりました。」

 お辞儀して席に戻ると、すぐに付箋の内容を確認した。

 

優しい口調で指摘された改善できるポイント。

書かれている字も男の人にしては少し丸こっく、筆圧も濃くない。

 

長嶋さんの文字を見るたび、文字にその人の性格が表れるというのは本当だと常々思ってしまう。

 

大人で、性格も素敵で頼りになって。

長嶋さんの下で働けると分かったとき、すっごく嬉しかったなぁ。

 

書類を確認し終えた私は、何気なく長嶋さんを見た。

 

さっきまで座っていたはずのデスクにいないその姿を探すと、遠くのほうで誰かと難しそうな雰囲気でお話をしている。

 

…速水さんだ。

 

この間も下の階で長嶋さんと話したっていってたし、

随分親しんだなあ。

 

あ、そうか。

長嶋さんって、速水さんと同期だったけ―――。

 

 

 

 4A~4L。

棚の中央に貼られたシールの文字を確認した私は、早速整理に取り掛かった。

 

整理を頼まれたファイルの位置は、私たちの部署が比較的使用頻度が高いところであり、

度々利用したことがある私にとっても馴染みのものばかりだ。

 

背表紙を見て、書かれた番号を確認しながら私は一つ一つ抜き差ししていく。

ない番号があれば、資料室の机に置きっぱなしになっているか、他の棚に誰かが間違えて返してしまったか…。

 

「あっ、あった、14番!」

思ったより早く終わりそうだな。

 

気が抜けた私は外を確認すると、もうすでに日は暮れようとしていた。

 

 

バサバサ―――

 

「っ。」

 バインダーに挿められていなかった資料が一気に床へ広がった。

 

「やっちゃったー。」

 かきわけるそれは20枚ほど。

古いものなのか全体的に黄みがかっている。

 

あれ?でも。

この資料だけやけに白い。

 

やっぱり。

予感した通り、それはここに挿むには相応しくない紙だった。

 

「もしかして…。」

他のファイルも開いてみると、

そこにもところどころに混じってはいけない紙が留められていたりしている。

 

「う。見なきゃよかった。」

運がいいのか悪いのか、終わりかけていたはずの仕事はまた最初から。

 

 

長嶋さんもう帰っちゃったかな。

一応長引くかもですって報告しにいこう。

 

私はパタンと扉を閉めた。

 

 

 

 戻ってきたオフィス内にいるのは、長嶋さんと数人の人だけで

大半の人はすでに帰宅したようだった。

 

「長嶋さん。」

 名前を呼びながら長嶋さんの席に近づいていく。

 

「ん、もう終わった?」

 彼は厚手の灰色のコートを羽織い、もう帰り支度を始めていた。

 

 

「いえまだなんですけど…。」

 

ここで資料整理長引くって言ったら、長嶋さん手伝うって言い出すよね…?

 

「すぐ終わるんですけど、

ちょっと調べものあって長引きそうなので、今日はお先どうぞ!」

 

「あ、そう…?本当に大丈夫?」

 

「大丈夫です!」

 不安を感じさせないように私は微笑んだ。

 

「市田も残業組か~。

最後のさいご、市田に飲みいこうってねだろうと思ったのについてない。

今日は振られっ放しだ。」

 

「すみません。」

 冗談口調の長嶋さんに、私はくすくすと笑った。

 

「誰と飲みに行く予定だったんですか?」

 

「んー、」

 長嶋さんはパソコンの電源を切った。

 

「速水、はやみ。」

 

 

プツンと音が最後に鳴る。

 

 

「…あ、そうなんですね。」

 

「速水も残業なんだって全く。」

 長嶋さんの横目につられて私も振り返って速水さんの方を見た。

 

 

あ、本当まだ帰ってない。

 

それどころか、

隣には女の人がいて、

彼女は速水さんのそばに寄り体をから向けて彼と談笑しているよう―――。

 

「あいつ、本当仕事かぁ?」

 渋る声が長嶋さんの口から洩れる。

 

 

「…。」

 

 女の人、木野さんだ。

スタイルよくておしゃれで、通り過ぎるとき決まっていい香りがする。

 

木野さんと仲いんだ。

その人は笑っているのかその人の肩は少し揺れていた。

 

 

「市田?」

 

「はい!」

 パッと振り返って長嶋さんに向き直る。

 

 

「熱心なのはいいことだけど早く帰れな、危ないから。

整理もそんな丁寧にしなくていいから。」

 

 

「大丈夫です、お疲れさまでした。」

 自然と笑みがこぼれる。

 

「じゃあ。」

 そういって去った彼の背を私は少し見ていた。

長嶋さんって本当優しい…そう思いながら。

 

 

+  

 

「あー終わったあ!!!」

 

 最初からやり直した私は、

時間がかかることをいとわずに一つ一つ確認して丁寧にその仕事を終えた。

 

時計の針はもう1時間も進んでしまっている。

 

 

「この気になるととことんやっちゃう性格、直したいなぁ。

そしたら大部疲れ減るはずなのに。」

 苦笑しながら私は最後のファイルをポスッと棚にいれた。

 

「まぁそんな変なところで真面目なのが私だもん、しょうがないか。」

 誰も見ていないことをいいことに一度大きく伸びをする。

 

 

そのままオフィスに戻る気になれずに

資料室の隅に一つ置いてある、茶色の木の椅子にかけた。

 

横に広がる大きな窓の外、町明かりをぼうっと眺める。

会社の下はすぐに大きな道路があり、車のランプがピカピカと光っている。

 

さっきまで仕事に集中していたのに、

どうして暇になるとこうして頭の中を占領してくるんだろう…。

 

速水さんと木野さんの後ろ背を思い出していた。

 

 

「……。」

 

速水さんってよく分かんないや。

 

告白してきたのはそっちなくせに意識してるのはなぜか私で、

終始からかわれっぱなしだし。

 

全然私のこと好きそうじゃないし。

 

 

私の頭の中に我が物顔で突然ずんずん入ってきやがって。

 

 

ピシャン。

窓につけられている日よけのシェードを思いっきり下げた。

 

「帰ろ。」

 

ポツンと私の声が響いた。

 

 

 

 私の席の明かりがポツン。

もう一つ隣の部署の明かりがポツン。

 

すっかり夜のオフィス。

同じ部署内で残業をしていた人もいたはずなのに、

その人も帰った様でその姿はない。

 

「…木野さんはまだ帰ってないんだ。」

 速水さんの席の明かりは消えていた。

 

早く帰り支度しよう、もう今日はいろいろ疲れた。

ぐしゃぐしゃと私は後ろ髪をかいた。

 

 

私のデスクの上にはボールペンとカバンと、あれ?

コーヒー?

 

見覚えのない飲み物。

社内の自動販売機でも見かけない、牛のロゴが入った缶。

 

もしかして長嶋さんが気遣ってくれたのかな…。

わざわざ買って戻ってきてくれたのかもしれない。

 

いない長嶋さんのデスクの方を見ながらキュポンとそれを開けた。

 

「あ、いい匂い。」

 

ブラックではないのに、私がいつも飲むそれと比べると少し匂いが濃い。

 

 

でも

ごくっ。

 

私の喉が鳴った。

 

「…甘い。」

 

体の中がふわっと温かくなった。

 

 


ビターな香り

 

 

 週末がすぎてまた新たな一週間が始まった中、

私は来週行われるイベントの準備でバタバタしていた。

 

それは私も一部企画に携わらせていただいたもので、

イベントで流す映像作りに関係させていただいたり、しなければいけないことも幅広い。

下の階でメインに行われているため、私は朝から階段を何度も往復する始末。

 

ようやく普段通りの仕事に戻れる頃には、とっくにお昼をすぎていた。

 

 

明日は実際に現場に行く予定だし、今日以上に忙しんだろうなあ。

まぁ忙しいのはいいことなんだけど。

 

そんな風に感慨にふけながら、持参したサンドイッチを口にいれる。

到底“あの”サンドイッチには適わないけれど、それでもおいしい。

 

甘い卵の味が口に広がって、

だんだんと口の中がぱさぱさしてくる。

 

コーヒーでも飲みに…。

そう思ったとたん、私はハッとして頭をふるふると振った。

 

だめだめ、給湯室行ったら鉢合わせしちゃうかもじゃん!

私には絶対手に負えないもの!

 

あぁもう余裕ができるからこんな邪念ばっかりになっちゃうんだ、

もっと働かなくっちゃ!

 

最後の一個であるサンドイッチをむしゃりと頬張った。

 

 

 

「市田、ちょっといいかな?」

 

「はーい!」

 

仕事だ、仕事だ!

パソコンを打つ手を止めた私は長嶋さんのもとへと急いだ。

 

「この間直してくれた奴よくなってたよ、この調子。」

 にこっと微笑む彼。

 

「ありがとうございます!」

 さっきまでのもやもやが消え、嬉しい気持ちでいっぱいになる。

 

「えっとそれで、今忙しそうにしてるとこ申し訳ないんだけど、」

 

「全然かまわないです!」

 

「……あ、そう?それは助かるけど。」

 一瞬きょとんとした顔の後、長嶋さんは言葉をつづけた。

 

 

「俺たちの部署じゃなくて、隣の部署の仕事なんだけど。」

 

「隣の部署?」

 

「今度××会社に営業に行くらしくて、

来週のイベントの企画もその時詳しく紹介しようとしてるんだって。

 

それで市田も一部企画して今携わってるし、話一応聞きたいって。

忙しいし断ろうと思ったんだけど、力入れてるらしいから特別にってことで市田に聞いてみたんだけど。

 

でも、余裕あるみたいだからよかった。」

 

 目じりを柔らかく下げた長嶋さん。

一方の私は、表情が一気に青くなる。

 

 

「えっと…それでどなたに……。」

 

「速水。」

 

 近づく足音。

カーペットがもふもふ音を立てる。

 

至近距離でその人を見るのは久しぶりだ。

 

 

「長嶋、話し通してくれた?」

 よく通る彼の声が私の耳に突き刺さった。

 

 

 

 ガチャという音をたて、一番小さな会議室に私たちは入った。

一つ大きな白いテーブルが中央に置かれており、8つの椅子がその周りを取り囲んでいる。

 

「ここでいいかな?」

 

「はい。」

先に入った速水さんはメモ帳とペンをテーブルの上に置くと、

 

「飲み物でも持ってこようか、コーヒーでいい?」

 そう言ってうなずいた私を見届け、

 

「座ってて。」

 一人で出て行った。

 

残された私。何の音もしない部屋。

テーブルの上の黒いメモ帳とペンが私を見つめてくる。

 

うーだめだ、何か意識してしまう。

緊張もすごいし。当の速水さんは普通なのに……。

 

あーもう!

これは仕事、これは仕事。割り切れ、私!

 

頬をパチンと私は叩いた。

 

 

コンコン。

数回のノック音。

1回深呼吸して気持ちを整えた私は、彼が開けるよりも早く扉に手をかけた。

 

「ありがと、お待たせ。

座ってて貰ってよかったのに。」

 

「飲み物、用意していただいているので。」

 

速水さんは紙コップをテーブルに置くと適当に席に座った。

私は彼から席を二つほど開け、ななめに向かい合うような形をとる。

 

「そんな時間くわないから安心して。

長嶋からもよくよく言われてるから。」

 苦笑しながらそう言う速水さん。

 

私が短く返事すると彼はメモ帳を開いた。

 

 

質問の前に何か小言の一つや二つ言われるのかと思っていた私は

彼の行為に拍子抜けしてしまう。

 

彼はいたく真剣な表情ですぐに本題の仕事に入った。

 

企画の内容、自信を持っている点などなど

あらかじめ考えていたと思われるものを彼は次々に聞いてくる。

 

 

減らないコーヒー、どんどん彼のも私のも冷めていく。

すごい適当な人かと思ってたのに。

 

速水さんってこういう一面もあるんだ。

 

 

 

「ありがと、じゃぁちょっと書き留めさせて。」

 

「はい、どうぞどうぞ。」

 彼の手がせわしなく紙の上で踊り始める。

 

静かな速水さんって新鮮。

いつもなんかからかってくるし。

 

彼の手は左から右、下へと動きまた左から右へ変わらず動いている。

たくさん書いてるなあ…。

文字は長嶋さんより渋い、筆圧もちょっとだけ濃いかな。

 

手は長嶋さんよりごつくはないけど、

骨ばってて私より色が濃くて男の人の手…なんだ。

 

あんまり見ないようにしてたから分かんなかったけど、

顔だってこうやってじっと見ると、

 

鼻筋がすうっと通ってて目に若干かかる髪の感じとか、

艶やかな肌の中に浮かぶ目じりのほくろとか

 

 

この人、

本当色っぽい……。

 

それに、やっぱり6つも上の、

 

大人の人―――なんだよね。

 

 

 

「ん、ありがと。これで何とかなりそうだわ。」

ほっとした表情の速水さん。

 

見ていたことがバレてしまわないように、私は咄嗟に視線をコップに移動させた。

 

「力になれたみたいでよかったです。」

 私は軽く微笑む。

 

彼はメモ帳をパタンと閉じるとペンと一緒に、スーツのポケットにしまった。

 

「もうコーヒー冷めちゃったかな。」

 右手でそっとコップに触れる彼。

 

私はそれを黙って見守る。

 

「……。」

 

「……。」

 

 

「じゃぁ戻ろうか。」

てっきりそう言われると思っていたのに

 

そう言うでもなく、

口を開くでもなく、黙ったまま。

 

 

私が喋るタイミングなのかな、戻りましょうかっていうべき?

 

分かんないけど、でもとにかく沈黙は耐えらんない…!

頭の中でクエスチョンマークがいっぱいになっていた時だった。

 

「お昼取った?」

 速水さんは視線をコーヒーから私へと移した。

上目遣い、彼の目が私をとらえている。

 

「…さっき取ってました。」

 仕事しながら取っていたということは何となく言わないことにした。

 

「そうなんだ。」

彼の口元が少し緩まる。

 

「速水さんは?」

 

「これから。

仕事ひと段落しないと取らないタチで。

 

まあでも今はお腹減ってないんだけどね、始まる前はすいてたけど。」

 

「いざ食べ始めたらきっとまたお腹減り始めますよ。」

 笑った私に、速水さんはくしゃっと笑い返した。

 

 

「……。」

 

「……。」

 

 

話が途切れた。

 

何を話そうか、そうあわてている私とは裏腹に

速水さんはぼーっとマイペースに壁の一点を見つめている。

 

速水さんなんで戻ろうって言わないんだろ。

何考えてるんだろう。

 

そもそも今の私たちの感じって何…?

 

 

 

「速水さん。」

 

「何?」

 彼が私を見つめる。

 

「きゅ、給湯室での…ことなんですけど…。」

 デクレシェンドのようにだんだんと小さくなっていった言葉。

 

い、言っちゃった……!

うつむいてぎゅっと目を閉じる。

 

頭の中を彼がいいそうな言葉たちが駆け巡っていた。

それでも

 

「ん?」

そう彼が口に出すなんてこれっぽっちも思っていなかったけれど。

 

見上げた先の速水さんは、

首をかしげて、何のこと?とでも言いたげな表情。

 

…え?

私は思わず聞き返してしまいそうだった。

 

 

「あ、何でもないです!」

 笑って誤魔化すようにコーヒーを私は手に取る。

 

ばか。

別に、ちょっと聞いてみただけ…じゃん。

 

ゆがむコーヒーの水面。

私が飲んだからなのか、私の表情が歪んでるからなのか。

消し去るかのように私はそれを飲み干す。

 

「冷た。」

 速水さんは手に持ったコーヒーを凝視した。

 

「まだ飲んでなかったんですね。」

 

「……なんでだと思う?

俺がコーヒー飲んでなかった理由。」

 彼がもう一口飲む。

 

「……いえ。」

 私の胸がドクンとなる―――。

 

「市田がもうちょっとこの場にいたいなあって思ってるときどうする?」

 

「それは……」

 

行動を遅くするとか、話しのばす…とか。

 

 

……あ、そ、そういうこと、

速水さんがコーヒー飲んでなかった理由。

 

「……顔、火照ってるけど大丈夫?」

 くすっと笑った、意地悪な彼の表情。

 

「い、今の冗談なんですか、もしかして。」

 

「さあどうでしょう。」

 またしても口の端を緩めている彼。

 

あ、もうこの人本当意地が悪い。

人が質問したことには答えてくんないくせに。

優しい人だなんてうわさした人、誰ですか。

 

「速水さんって意地悪いんですね。

優しい人だって聞いてたのに。」

 

「…俺のこと知ろうとしたんだ?」

 机に頬杖をつく彼。

 

「ほらそういうとこですよ。」

 

「ごめんね。」

 そういいながらもその表情はちっとも悪気がなさそう。

 

「仕事中のすごい視線も俺を知ろうとしてのことだったのかな?」

 悪戯な笑みで彼は私をからかった。

 

 

「見てないですよ。」

 コップを手に取る。もう中身は入ってないのに。

 

「…なんで空なのに飲んでるの?」

 

「っ。

も、もううざいですよ!」

 私は口を尖らせた。

 

 

「ごめん、ごめん。」

 

 子供のように無邪気に笑う彼は、

とても私より6歳年上の29歳の大人には思えない。

 

 

 

 長嶋さんと同い年だってのに全然違うなあ。

長嶋さんのほうが大人っていうか、落ち着いてるっていうか…。

 

「どうした?」

 

「いえ、長嶋さんと同じ年に見えないなぁって。」

 

「…そう?」

 速水さんの眉が一瞬ぴくっと動く。

 

「長嶋のほうが魅力的?」

 

「魅力的って―――…

そうじゃないですけど、やっぱり長嶋さんのほうが…」

 

 

落ち着いているっていうか安心感があるっていうか。

 

やっぱりどんなに会話が盛り上がっても、

速水さんは遠い世界の人のようなそんな気がする。

 

それは年齢のせいなのか彼の人気のせいなのか、

何の違いなのか分からないけれど。

 

 

「…速水さんは変な人ですね。」

 

「え?

それってどういう……」

 

 

コンコン

会議室のドアがノックされた。

 

「失礼します。

速水さんちょっといいですか?」

 木野さんが顔をひょこりと小さくのぞかせた。

 

「あ…うん。」

 速水さんがコップをそのままにしてその場に立ち上がる。

 

その彼のコップを持つと私は自分のも持ってドアに向かった。

 

「もう終わったのでここどうぞ。」

 

「いや、市田ちょっと。」

 

「長嶋さんに頼まれた仕事思い出したので。

コーヒー片しときますね。」

 木野さんに会釈すると私は速水さんを見ずに会議室を出た。

 

給湯室で片づけた二つのコップ。

彼のコップにはまだコーヒーが半分以上残っていた。

 

 


ブラック

 

黒色:

 

しっかりしているとき、しっかりしなくちゃと思っているとき。

自分にカツを入れたいとき。

 

節約おにぎり

 

 

 イベントは無事終わり、私は長嶋さんがまた新たに企画しているお仕事のお手伝いを任されていた。

 

先週は毎日が怒涛の日々……

イベントは無事成功に終わったものの、週末に取れきれなかった疲れが今の私を悩ませる。

首と肩のコリからかつい首を回してしまう。

 

とはいえ悪いことばかりではない。

充足感にあふれていて何だかんだいっても忙しい先週が好きだった。

 

たるんだ頭を引き締めてくれた気がした。

 

 

 「あれ?市田最近おにぎり多いね。」

 通りすがった長嶋さんが、私の手の中に収めていたおかかのおにぎりを見てそう言った。

 

「休憩、先いただいてます。ちょっと節約中です。」

 昨日炊いたご飯で握ったおにぎり。

コンビニで買えば百何円とかだけど、実家から送られてくるご飯で済ませば0円だ。

 

「えらいなぁ、俺も明日おにぎりにしよっと。

あ、品川さんちょっとこれ……。」

 揚々で返事をしてくれた長嶋さんはまだお仕事が立て込んでいるのか、私の隣の席の品川さんに声をかけた。

 

長嶋さんに褒められちゃった。

私は鼻歌でも歌いたい気分を抑えて、おにぎりを頬張る。

 

あとおにぎりは2個、タッパには簡単なサラダと卵焼き、小さなお好み焼きなんかも入ってる。(これも昨日の残り物)

 

そして、牛のロゴが入った缶。

これは余分なお金、だってちょっと前は給湯室のコーヒーでお昼は済ませていたから。

会社のそばでは今だ見つけれてないのだけれど、

自分の家の近くのお店で同じものが売られているのを発見したからラッキーだった。

 

ドリンク代がかさんでしまうけれど我慢。

このロゴを見るだけでなんだか元気が湧いてくるし、ほっこりしてくるし……ね。

 

わざと給湯室避けてるとか、そういうんじゃない。

おにぎりばかりのも、そういうんじゃない。

 

 

 

『じゃぁ気になってるんじゃん。』

 

ゴフっと私は口にいれていた牛乳を吹いた。

流しの前で飲んでいたからセーフだ、床に飛び散るなんてヘマせずに済んだ。

 

「だから~!」

 誰もいない部屋で私はひとりでに叫ぶ。

 

『なんでそうなるのよ!』

 

私は勢いそのままに携帯画面に文字を打ち込んだ。

画面の上部には高原遥という名前…そう、仕事を終え帰宅した私は彼女とLINEで会話をしている。

 

話の内容は当然”その人“のことだ。

あまりにもしつこいから話さざるをえなくなったっていうのが正直なところだけれど。

 

『だって、仕事しているときも意識しちゃう~とか、

告白が何だったのか自分から聞いちゃう~とか

 

どうでもよかったらしないはずだもん。』

 

『そりゃ私だって人間だもん、

告白されたら意識するし、何だったか気になるよ。』

 

 返事を返し、すぐそばに携帯を置くと牛乳で使ったコップを私は洗った。

 

『ふ~ん。

 

でもみのり。』

 

「な、なによ。」

 打つ前にまたしても声をあげてしまった。

 

 

 

『彼と会うの頑固避けたり、接点なくすために何かしてるなら

それは確実にアウトだから。

 

もう気になってる以外のなにでもないね♪♪』

 

 語尾につけられた二つの音符の絵文字がおちょくるように踊っている。

 

『なんで?』

 

『このまま話してたら好きになっちゃう!とか

そういう類に入りそうだもん、みのりだったら。』

 

『またまた~!』

 

『私の目を誤魔かそうたって無駄です。』

 

 私は少し既読をつけるのをためらいながらまたスマホを開いた。

連投したのかまた新たに彼女からメッセージが届いている。

 

『だけど私だったら絶対もうコロリと好きになってるなぁ。

そんなSっ気な感じでアピールされちゃうと!』

 

「でしょうとも…。」

 

 私と遥は仲が良いのに、恋愛に対する向き合い方が違いすぎる。

私は慎重、遥は…猪突猛進。

 

『私は違うもんね。』

 

少し時間をおいて返信したというのにそれを無視して彼女から勢いよく連絡がきた。

 

『とかいって』

 

『もう気になってるくせに~。

意地はるのはかわいくないぞー!』

 

遥、絶対面白がってるな…。

にやにやとほくそ笑む彼女のお得意の表情が目に浮かぶ。

 

『うるさいな~!』

 

『うるさくないです~。

 

にやにやにや。』

 

…面白がってるじゃん。

 

 

『おにぎり生活頑張って、速水さんによろしく♪♪』

 

 そして、おやすみとかかれたスタンプがそのあと続く。

 

 遥…嫌味ったらしく送ってきやがって!

 

っていうか速水さんともう関わるときないし! 

 

 

そう、思ってたのだけれど。

 


鼓動の言いわけ

 

 

 あー、なんなんだろう、この状況。

 

私の隣には長嶋さん。

長嶋さんの向かいには私の同期の内川くん。

そして、私の向かいには速水さん。

 

頼りない木の板で区切られた和室、足元には大きな溝が空いていてお座敷なのに足をぷらぷら垂らすことができる。

居酒屋といっていいこの店は他のお客さんの声でも騒がしい。

 

さすが華金といったところか、今の私には闇金に感じられるけど……。

それもこれも彼のせい。

私の目の前で呑気に枝豆をつついてる、この速水さんの。

 

 

会社終わり、長嶋さんに飲みに誘われた私は彼と一緒に会社を出た。

 

「久しぶりですね、いつものところにしましょうか。」

 飲みに行く前の決まり台詞を私は口にしながら、「おう、今日もとことん飲むぞー!」なんてことを言うだろう長嶋さんの言葉を待っていた。

長嶋さんから視線をパッと前にうつして。

車通り、二つの影。

細めの背丈が大きい。

 

あ、やばい。そう思ったときには遅かった。

 

「あれ、お前らもこれから飲み?」

 長嶋さんの口から待っていない言葉が飛び出した。

 

 

 

 ゴキュ。ビールを飲む。

そんなにお酒強くないけれどでも今は飲むしかない。

 

食べるか飲むか、それに徹している私は隣で盛り上がっている彼らの話を聞いていた。

 

飲むのは初めてのはずなのにすっかり打ち解けた様子の長嶋さんと内川くん。

 

注文がテーブルに並べられて10分、既に長嶋さんの頬はほんのり赤い。

内川くんも内川くんで普段よりも声を大きくさせいっぱい喋ってる。

 

盛り上がってる二人にずかずか入っていくのも、

かといって、速水さんと喋るのも…。

 

 

一緒にした仕事以来だと思う、こんな近くに彼がいるのは。

3週間ぶり…

 

変なの、告白される前は顔を見合わせないことの方が当たり前だったのに。

 

今は彼の表情が見れて、あ、速水さんだ…ってなんとも言えない感情を抱いた私も若干いる。

 

まぁでもその3週間の間何も彼からコンタクトがなかったのを見ると、

告白とか今までの一連のことは彼の気まぐれだったって考えられる。

 

でも相当速水さんの意地悪が効いてるのかな、

少しだけ、少しだけね。

寂しいって感情も、ある…かな。

一緒に飲むことになったこととは別問題としてね。

 

 

 彼に向き直ると相変わらず枝豆を食べているのか、彼のおてしょうには枝豆の殻タワーができていた。

枝豆しか食べてないんじゃ…。

隣で盛り上がる二人に加わろうともしないで、とにかくパクパクパクパク。

 

まぁ、分かっちゃうけどその気持ち。

食べだしたら他のもの気にならなくなって中毒みたいに、無我夢中で枝豆を口いっぱいに入れ込んで。

 

あーあ、やっぱり意地張らずに私も枝豆頼めばよかった。

速水さんが頼むから何となく同じのが嫌で遠慮しちゃったんだよね。

かといって彼がおいしそうに食べてるのを貰うっていうのも申し訳ないっていうか。

 

「…枝豆食べれば?」

 ぼそりと速水さんが口を開いた。

 

いや大丈夫です、って心の声。

「いいんですか?」って思わず出た私の声。

 

「物欲しそうに見てるなぁって思って。」

 くすりと笑いながら彼は枝豆が入ったお皿を私の方に寄せた。

 

……サンドイッチの時といい、私速水さんにとんだ食い意地張った女だって思われてやしないだろうか。

 

 

「いただきます…。」

 

「うん。」

 

 速水さんはビールを飲んで、サラダを自分のにとりわけ始めた。

パク。私ののどにひゅーんと勢いづいた枝豆が入っていく。

 

「うまい?」

 

 こくっと私は頷いた。

 

彼の悪戯っぽい表情から見るにどうせまた「餌付けだ。」とか思われてるんだろうな。

でも…いいや、なんかそう思われても。

 彼のその表情は案外嫌いじゃないから。

 

 

 

 枝豆を食べ終わった私は、おしぼりで手を拭いた。

 

速水さんとは

「これ美味しい。」「あ、本当ですね。」なんて料理の会話をちょこちょこ交わすだけ。

 

それでもその微妙な距離感の感じに私は安心してしまう。

隣の部署の速水さんと私がすごい親しげに話してる、なんて内川くんと長嶋さんからしたらおかしな話だから。

 

そんな彼らは今は車の話でもしてるようで、先ほどよりますます声は大きい。

これじゃ速水さんと万が一盛り上がることになっても二人とも気にしそうにないな…。

 

「市田は長嶋とよく飲むの?」

 不意に、私の横顔に速水さんの言葉が飛び込んだ。

 

「いや、たまにお誘いいただくって感じです。

今日も久しぶりだったんですけど。」

 慌てて速水さんに視線をあわせて、料理の話じゃないんだって思った。

 

「そっか。」

 速水さんは口にお肉を運ぶ。 

 

「速水さんは長嶋さんとよく飲まれるんですよね…?」

 

「うん。内川とも飲むけどね。

内川とは飲んだことあんの?」

 

「1対1ってことはないんですけど同期で集まったときに。」

 私の同期は5人。

それでも他の部署だったり隣の県にお勤めだったりで当分会ってない人もいる。

内川くんはそんな中で会える、少ない同期の一人。

といっても素直な感じも無邪気な感じも、初めて会ったときから全然変わってないけれど。

 

「飲んだことあるんだ。」

 

「数回ですよ、最近は全然話せてなかったですし。」

 ってなんで、弁解みたいなこと。

 

私はごくっとビールを飲んだ。

 

「ふーん。」

 

速水さんが自身のジョッキに滴った滴をつーっと指ですくう。

 

「俺とは飲まないのに?」

 彼の瞳が私をじっと見つめる。

 

「……それおかしいです、

速水さんと飲む方が不自然じゃないですか。」

 パッと私は視線をそらした。

 

「それもそうか。」

 微笑する彼。

長嶋さんたちが大声で盛り上がっていることを再び確認した私は、たまらず彼を責めた。

 

「内川くんが心配です。

速水さんにいじめられてるんじゃないかって。」

 

「俺がからかうのは市田だけだよ。」

 

「…全然嬉しくないです。」

 

「ハハハ。」

 

 見据えてくるときはすごい大人な人なのに、

ひとたび笑ったら子供みたい。

 

まずいな。

この胸のドキドキが、ビールのせいなのか彼のせいなのか

 

どっちなのか分かんないや。

 

 

だからだよ、私はいずれこうなってしまいそうで、

「変な人だ」なんて言って彼を――― …

 

「あれ?」 

 そう声をあげたのは速水さんではなかった。

 

 

「そういえば速水先輩と市田さんって面識あるの?」

内川くんの視線が私のとぶつかった。

 

「あ…えっと、ちょっと前軽くお仕事させていただいて。」

 

 びっくりした、話の内容聞かれてたのかと…。

 

速水さんの顔色をちらりと見ながら答えたけれど、先ほどと何一つ変わらない。

動揺してるのは私だけか。

 

「そうなんだー。

いいなぁ、俺最近速水先輩と仕事できてないし羨ましい。」

 

「あほ。」

 速水さんは内川くんの熱い視線をスパッと交わした。

 

「っていっても速水さんが質問してくださって、私が答えるっていう手短なものだよ。」

 私はビールをごくっと飲んだ。

 

「それでもいいじゃないですかー。」

 

「お前、飲みすぎ。」

 速水さんは笑いながら内川くんの頭を軽くたたいた。

 

内川くん人懐っこいとは分かってたけど、これほど速水さんに慕ってるなんて

結構面倒見いいんだ。

 

 

「市田さんは速水先輩どうだったんですか?」

 

「どう…って。」

 またもや反応に困るパスが私に飛んでくる。

速水さんを見るも彼は黙っているだけ。

 

なんで私の時は黙ってるのよ…。

 

 

「速水さんって結構人気あるって聞くんで、市田さんはどう思ったのかなぁって。」

 

「……。」

速水さんの表情を見る。

 

 

本当、ずるい人だ。

さっきまで知らんぷりだったくせに、こういうときだけ私に視線をあわせてくる。

その色っぽい目が私を捕らえてくる。

 

なんて答えるか興味がある…みたいに。

 

 

「え、速水ってそんなに人気あるの?」

 長嶋さんが驚きの声をあげた。

 

「ありますよー。」

 

「えーいいなあ速水。」

 

「…お前も飲みすぎ。」

 呆れた声を出しながら速水さんは長嶋さんに水をすすめた。

 

 

「あでも長嶋さんも結構人気ありますよ。

優しい人だって。」

 

「市田もっと優しいって噂しといて。」

 長嶋さんは笑って、ビールをまた二つ注文した。

 

「もう酔いすぎです!」

 くすくす長嶋さんに笑いながら私もまた一つビールを追加する。

 

「長嶋さん、内川くんとさっきまで何お話しされてたんですか。」

 

「ん、あれだよあれ。」

 長嶋さんが車の話を再び始める。

内川くんも速水さんと何やら雑談を始めた。 

 

よかった、これでなんとか話しそらせたみたい。

 

 

 

 すっかりそれから長嶋さんの話を聞く役に回った私は、

車の話に加えて、彼の趣味であるダーツにビリヤードなどの話も聞き始めた。

 

といっても長嶋さんと飲みに行くと大体話すのはそれらの話だったりするわけで、

別段珍しいというわけでもない。

 

「それでこーね、パーンとやったわけ俺!」

 お酒の力もあっていつもより饒舌。

 

「はい、聞いてますよ。」

 笑いながら私は彼のジョッキにお酒を注いだ。

 

私も長嶋さんにつられてお酒の減るペースが速い。

長嶋さんが帰りに困ってはいけないと私は合間合間にお水も差しだした。

 

+ 

 

 速水さんたちはどんな感じだろう。

話に一区切りついたところで私は彼らを見ると内川くんの頬は一層赤い。

 

速水さんも一見変わらないように思えるけど、よく見るとほんのり頬に紅がさしてある。

 

「はー、やっぱり先輩はお酒強いですね。」

 内川くんの頼りない声。

 

「お前に負ける奴はいねーよ。」

 速水さんは口の端を緩め、またお酒をごくっと含む。

 

「おらお前もうお酒飲むなよ、酔いすぎだから。」

 

「あー返してくださいよー!」

 無理やり速水さんが取り上げようとしたジョッキを内川くんは自身のほうに寄せた。

 

「内川くんもうやめた方がいいよ、

長嶋さんのお水ちょっと貰ったらどうかな。」

私もつい間に入ってしまう。

 

 

ためらいながらも堪忍したのか内川くんは

「…市田さんが言うなら。」 

 そう言ってジョッキをテーブルに置いた。

 

「うん。」

 空になっていた内川くんのコップに私はお水を注ぐ。

 

「市田さん僕のお酒飲んでいいですよ。

まだ余裕ありそうですし。」

 一気になくなる内川くんのお水。

速水さんには強気だったけど、やっぱりもうきついんだな。

 

「私は内川くん達よりコップが一回り小さいから。

でも勿体ないし貰うね、まだ飲めるから。」

 このまま内川くんの前にお酒を置いていたら意地でも彼飲みそうだし。

 

私はそう思って彼のジョッキをコトンと目の前に移動させた。

 

「あー飲んだ飲んだ。帰る前にお手洗いっと。」

 長嶋さんはそうしている間に食べていたらしい唐揚げを、平らげてしまうと席を立った。

 

内川くんは残っていた後の少しのポテトをもしゃもしゃと食べている。

 

「おい内川も行っとけ、この間帰りそれで困ったんだから。」

 

「大丈夫ですよー。」

 

「この間もそう言って結局だめだったじゃねーか。」

 

「はーい。」

 しぶしぶ立ち上がった内川くんの背中も見えなくなる。

 

 

すっかりお店の中もお客さんが少なくなったようで、入店したときの活気な感じはもうない。

たくさん頼んだ注文も、

テーブルの上にはちらちらしか残っていないおかずの数々と、開けられたお酒の瓶、それからジョッキ。

 

いるのは酔いが回り始めた私と、まだ余裕そうな速水さん。

 

 

おかしいな、さっきまで表情見れてたはずなのに。

二人きりになった途端、……見れない。

 

 

 

+ 

 

 私は一つだけ残っていた餃子に箸をつけた。

一方の速水さんは内川くんのコップを奪い水を飲む。

 

「飲みすぎちゃいました?」

 

「いつもよりね。」

 濡れた唇を彼はぬぐった。

 

「内川くんが心配ですね。」

 苦笑する私。

 

「まあ俺が途中までついてるからなんとか。」

 

「あ、速水さんもそっち方面なんですね。」

 同期で飲んだとき、内川くんと途中まで帰ったことを思い出した。

 

「じゃぁ長嶋一人か、

まぁあいつはなんだかんだ大丈夫だしね。」

 

「お店出て風当たった途端、長嶋さん酔い覚めますもんね。」

 

「うん。」

 速水さんの表情がくすりと緩む。

 

 

普通に話してたらいい人なんだけど。

でも、ちょっと油断すると噛みついてくるというか。

 

しまうまがらいおんに襲われるみたいに、

獣みたいに―――

 

って何ばかなこと考えてんだ、私は。

 

 

私は内川くんが飲みかけのお酒に手をかけた。

 

「ばか。」

 

「あっ。」

 

 ジョッキを持った私の手、

上から速水さんの手が覆いかぶさる。

 

 

そのまま、1秒。

 

2秒。

 

 

3秒目、するりと私は手を抜かした。

 

 

「お前も飲むな。

ったく、内川追い出した意味ないじゃん。」

 速水さんはそのまま口にジョッキを当てた。

 

「す、すみません。」

 言葉が私の口からこぼれる。

 

あーあ、食べられたかと思った。

だってほら、触れられたとこがばかみたいに熱い。

 

 

「無理して飲まなくていいから。

好きなもんだけ食べな。」

 

こくん、私は頷く。

 

「えらい、えらい。」

 ハハハっと彼の笑い声。 

 

「餌付けはされないですからね。」

 絞り出した一言は今できる、私の精一杯の虚勢。

 

でもあっけなく彼は「そうだね。」って言って負けを認めた。

 

また狡猾な表情で私を見てくると思っていた私は拍子抜けしたように目を丸め、

 

「餌付け、私されてないんですか?」

 思わず聞き返してしまった。

 

彼はお酒をぐいっと飲む。

 

「餌付けどころか、俺のこと避けてたでしょ?」

 じろりと見た瞳が私を捕まえた。

 

気づいてたんだ。

 

「……さ、避けてないです。」

 私は彼から目線を外した。

 

「嘘だ。

現に久しぶりに話してるじゃん。」

 彼の視線をまだ感じる。

 

「それは…たまたまですよ、

私たちそもそも普通に仕事してたら会話なんてするときないじゃないですか。

 

避けるも何も話さないのが普通です。」

 

 

筋は通ってる。

これなら彼も何も言えないはず。

 

 

「…じゃぁこういうよ。」

 

 

「俺は話したい。」

 

 

しまったと思った。

大事なところに牙が突き刺さった感覚がした。

 

 

+ 

  

「給湯室全然市田寄り付かないし、

サンドイッチ頼むどころか昼間ばかみたいにおにぎり食ってるし。」

 

「…仕事が手いっぱいで休憩避けてたんです。」

 

「昼食は?」

 

「お、おにぎりブームです。」

 

「違うだろ、だってサンドイッチっていうか

パン自体避けて、おにぎりおにぎりおにぎりおにぎり。」

 

「おにぎりブームですもん、

おにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりおにぎりですよ!」

 

「なんだよ、それ…。」

 

 強気でわがままな末っ子みたいに反論、

 

すべてばれちゃってるのに。

 

速水さんってやっぱりすぐ私のこと分かっちゃうんだ。

給湯室に一度も行っていないのも

ここのところお昼がおにぎりばかりなのも―――。

 

今だってむちゃくちゃなことを言っている。

そう分かっている、それでも―――誤魔化すにはちょうどいい。

 

恋じゃない、恋じゃ、ない。

全然気になってなんか、ない。

 

あなたのその危ない香りの虜になんてなってない。

 

 

「俺のこと少しは気にしてるのかなとか思ったけど…。」

 

淀む彼の声。 

 

「……全然、そんなことなかったか。」

 

ハハハと彼は小さく笑った。

 

「そうですよ…。」

 

私も笑い返す。

 

 

このまま飲み会が終わってほしい、

90パーセント。

 

透視してよ、

その気持ちは10パーセント。

 

「長嶋たち遅いね。」

 

「本当ですね。」

 

 また料理の話が始まった。

 

 


白い息の衝突

 

 

「あー食べた、食べた!」

 速水さんよりも人二人分ほど前を歩く内川くんは夜空に伸びをした。

 

「内川、車に気をつけろよ。」

 騒がしいお店街を抜けたとはいえ人通りの少ない住宅街も車がたまに通る。

 

足元も舗装されたアスファルトとはいえ所々に砂利が転がっており、ちらちら建つ街灯だけでは心もとない。

運の悪いことに、星と月も雲の中へすっぽりと収められていた。

 

その人は酔っぱらっている内川くんを警戒しているみたいだった。

以前飲んだ時に何かしでかされたのかな、そんな想像が頭の中をよぎった。

 

「市田も遅れてない?」

 

「大丈夫です。」

 その人の広い背中を背景としてはぁと白い息が空中に出る。

マフラーしてくればよかった、いつもより遅くなったこともあってかすこぶる寒く感じた。

 

「長嶋さんはもう着いちゃいましたかね?」

 内川くんが歩くペースを落とし速水さんの横に並んだ。

 

「タクシー乗せたし、長嶋の家までならすぐだろうからもう帰ってるだろうな。」

 

「なかなか手こずりましたね。」

 内川くんが苦笑しているのは長嶋さんが歩いて帰ると聞かなかったことを思い出してのことだろう。

たくさん飲んだ長嶋さんを気遣って、彼らはタクシーで帰るよう無理やりお店前で諭していた。

 

「内川くんと飲むのが相当楽しかったのかな。」

 笑いながら私は長嶋さんの上機嫌な様子を思い浮かべる。

 

「そうだったら嬉しいなぁ。

またお誘いしたら僕とも飲んでくれますかね。」

 

「絶対ノリノリだよ、長嶋さん優しいから。」

 私の返事に内川くんは安心した様で、また一人だけ先へ先へと歩いていく。

遠くで聞こえた電車の警笛音が夜道の趣にぴったりだと思った。

 

 

「内川、心配だからあんま離れんな。」

 そう再度催促したにも関わらず

 

「速水先輩ももちろんまた飲み行きましょうねー!」

と陽気に絡む内川くん。

 

「分かったから。」

 

酔った内川くんにはさすがの速水さんもお手上げみたい。

 

もしかすると速水さんの弱点は内川くん…?

なんて彼に弱点が存在するわけないか。

 

 

 

 10分ほど歩いた。

 

たち並ぶ住宅の窓から洩れる光が消えるところも出てきた時刻、

あと少しで内川くんともさよならする別れ道にたどり着く。 

 

その人はどっちの道行くんだろう…。

右?左?

 

内川くんも速水さんも二人で話しているけどそれらしい会話が出てこない。

私が一番知りたい情報だったりするのに。

 

「市田さーん。」

 

「うん?」

 内川くんの言葉に俯いていた頭をあげる。

 

「僕だけちょっとそこの外れにあるコンビニに行くんですけど用事ありますか?」 

 

「えっと…」

 私は隣に立っているその人をちらりと見た。

 

2人っきりは気まずい気もするけど、

でもああいわれた手前露骨に避けるのは…。

 

「私はいいかな。」

 

「じゃぁ僕だけちょっと行ってきますね。」

 

タッタッタ――、

きれいなリズムで彼は駆けていく。

 

「足はや。」

 ぽつりと速水さんはつぶやいた。

 

「ですね。」

 私も答える。

 

「コンビニ行くと思った。」

 

「……そこまで避けないですよ。」

 むくれっ面の返事。

 

「そこまでってことは避けてたんだ。」

 

「ち、ちが!」

 

「はいはい。」

 それから私が避けていた理由も聞かずに彼は黙った。

 

はぁ。吐きだした息が二つ白く漂う。

私のと、速水さんのと。

4つ角の一角、塀の前で二人で立って人が一人はいるか入らないかの距離。

 

「疲れてない?」

 

「大丈夫です。」

 

「そっか。」

 

「寒いね。」

 

「寒いですね。」

 

短い会話。

静かな空気感が変な気まずさを追い立ててきていた。

 

 

 

 

「内川くんは何買いに行ったんですか?」

 

「明日の朝飯とか振り込みとかもろもろ。

いっとくけど内川の買い物すごい遅いから、ってこれ内川と飲んだときもしかして体験した?」

 

「いえ、その時彼買い物しなかったので。

でも、内川くんは確かに遅そうです。」

 くすっと私は笑った。

 

「あーさみい。」

 速水さんは息を吐いて口元へもっていった丸めた手を温める。

 

「速水さんは寒いの苦手そうですね、細みですから。」

 

「細いって言うな。」

 

「いた。」

 間髪いれずにコツンと頭に中指の頭突きが落ちてきた。

 

なんだよ、もう。

私は彼を見上げる。

 

私よりも30センチほど高い背。

横顔も整っていて、右目じりの泣きボクロも白い肌も

醸し出す大人の雰囲気も変わらない―――――が頬と耳は赤色ですっかり染まっている。

 

速水さんの嘘つき。

やっぱり、寒いの苦手なんじゃん。

 

 

 

「なに?」

 

「なんでもないです。」

 見降ろしてきた速水さんに私はぷいと顔を元に戻した。

 

変わらず私たちの口から吐く息はもわっと空中に白く広がる。

「心配して損した」それに似た感情をついさっき抱いたはずなのに。

 

速水さんの身を縮こめて立ってる姿を見てると

手を突っ込んでいるコートのポケットにカイロがあったら、なんて考えてしまっていた。

 

「……帰ったらちゃんと温まってくださいね。」

 とりあえず今はこう言うことしかできない。

何なとなく照れくさくて速水さんの方を見ずに今度は言った。

 

彼は少し間をあけて口を開く。

 

「あほ。」

 

こっちは心配して…!

むすっとした顔で不満そうに彼を見上げると

 

「市田の方が赤鼻なくせに。」

ツン、と速水さんが私の鼻先をつついた。

 

「な!」

 完全にふいをつかれた私は反射的に鼻を手で覆い隠す。

じろりと速水さんは私をみおろしたまま。

 

「変な気遣い見せるからだよ。」

 面白くなさそうにそう言うと私がいる方とは真逆のほうに視線を向けた。

 

別に体の心配するとか普通のことなのに、変って。

やっぱり心配するんじゃなかった。

 

そしたら触れられた鼻がこんなじんとすることもなかったのに。

 

 

 

 怒る…とまではいかないけれど、

まだ速水さんは不機嫌そうにそっぽを向いているので私は無難に長嶋さんの話題を出すことにした。

 

「長嶋さんはちゃんと帰れましたかね。」

 

「……大丈夫だよ。

今頃一人ぬくぬくこたつにでも入ってるんじゃないかな。」 

 

 穏やかな口調に、話題に気を遣うことでもなかったのかと安堵する。

 

また一つ向かいの家の2階の電気が消えるのを傍観しながら 

「いいなぁ長嶋さん。」

 とぽつりとつぶやいた。

 

「長嶋と飲んだときどんな話するの?」

 

「うーん、仕事の話とか長嶋さんの趣味の話とか。

専ら聞き役ですよ。」

 

「俺も内川のとき聞き役。」

 

「そうでしょうとも。」

 私と速水さんの小さな笑い声が場を占める。

 

「長嶋と飲むのがメイン?」

 

「そうですね、他の人とはあんまり。」

 

 そう言って少しだけ惨めだと思った。

 

社内で人気な速水さんは飲みに誘われるなんてしょっちゅうなはずだ、

内心私のことを寂しいヤツ、そう思ったかもしれない。

 

「孤独な奴だな」とからかわれるのも最悪覚悟していた。

 

 

 

「俺とは?」

 

へ?と言ってしまいそうになった言葉を飲み込んだ。

 

「またそのからかいですか、しつこいですよ。」

 笑いながら私は視線を地面に移動させる、速水さんの方はさっきからまだ見ていない。

 

「大体速水さんなら他に飲む人いっぱいいらっしゃるでしょう?」

 

「例えば?」

 

「木野さん。」

 

その名前が浮かんだけれど、言うのをやめた。

やけに“リアル”だと思ったから。

 

 

「内川くん言ってたじゃないですか、社内で人気だって。」

 

「だから?」

 

「だから他の部署の方とか…。」

 

「あぁー。」 

 彼はそういえば、と思い出したように言った。

 

「え、でも市田とは飲んでないんだけど。」

 

「もうしつこい!」

 カッとなって声をあげた私とは対照的に、ハハハと彼は笑い声をあげる。

 

肝心なところでお得意の悪態を披露しないくせに、

どうでもいいところで私をおちょくる―――それが彼の根性らしい。

 

 

 

「本当速水さんってからかってばかりですね…。」

 軽いというか緩いというか、どちらかというと遥の性格に近いのかもしれない。

 

「市田にだけね。」

 

「またからかい…。」

 道端の小石を蹴った。

 

「よくわかんないなぁ。」

 

 彼は笑うのをやめたようだった。

 

「からかってきたかと思えば変なところで優しい、

かと思えばまた振り回す……。」

 

「あとは何?」

じっと私を見る彼の瞳にひるんでしまう。

 

それでも私は小さく口を開いた。

10パーセントが勝ってしまったのかもしれない。

 

 

「……気もたせるようなことだって言ってくる。」

 

閑寂―――私たちの間に冷たい空気だけが通り過ぎる。

 

「俺のからかいが何か分からない?」

 彼は足元にあった小石をけった。

 

「……分からないです。

いつも速水さんは今みたいに質問してくるばっかりで全然答えてくれないから。」

 

あの告白も、給湯室も、会議室でのことも。

全部、ぜんぶ私をかき乱すばかりで。 

 

 

 

「でも市田は、もう答え聞くつもりなかったんじゃないの?」

 

私は黙った。

 

 

「あの時、俺がまだコーヒー残してたことを知っておきながら

“変な人”って言って逃げて。」

 

「それは……」

 

「市田はさっきの居酒屋でもシャットアウトした。」 

 

 

「そんなの、」

 

言えない。

 

ただの意地張りだなんて、とてもじゃないけれど。

 

 

「そんなの―――。」

 

 冬の寒さのせいじゃない。

 

悲しみか怒りか焦りか嫉妬か、

どれにも当てはまらないなんとも言えない感情が湧き上がって、それらが私の声を震えさせていた。

 

 

何も言わない私に

「ここで黙るのはずるいな。」

彼が小さく吐露。

 

 

速水さんは大き目な石を蹴とばした。

 

「…俺、

 

避けられてたって分かって傷つかないわけないんだけど。」

 

「あっ。」

言葉にならなかった声をだして、見上げた彼は

いたそうな表情を一瞬―――――

 

 

そしてすぐに笑って 

 

「でもそれ以前に長嶋なら上手くやるんだろうな。」

 小さく笑った。

 

「なんで、長嶋さん…。」

 

呟いた私に彼は私の頭に手を置く。

 

 

「お前に嘘ついたことは一度もないよ。」

 ぼそっと優しい声。

 

 

何か言おうとした私に

 

 

「……って言ったところで信じないくせに。」

 

 速水さんは悪戯な表情を浮かべ私の頭を小突いた。

 

 

 

 そのまま彼は私に背を向けると、何も言わないままコンビニにつながる道へ歩き出した。

私は追わなかった、いや追えなかった。

 

彼の姿が見えなくなって数分後、パタパタという音と共に内川くんが目の前に現れた。

 

「すみません、遅くなっちゃって。

いやープリンかケーキかえっと迷っちゃって。」

 彼は手に持っているコンビニ袋を晒しながらぶつぶつとひとりでに話を繰り広げる。

 

「あ、速水さんはもう帰るらしいので。」

 

「……え?」

 

「あぁ、市田さんは知らないのか。

速水さん僕がいると心配だからって決まってここまでついてくるんです。

 

自分は飲んだ日、電車で帰るくせに。」

 

電車って、駅はもうだいぶ前に――――

 

 

「優しい人ですよね、僕もああいう人になろうかな。

そしたらもてちゃったりして。」

 内川くんは無邪気に笑う。

 

「……。」

 

「市田さん?」 

 

「本当、」

 

速水さんらしい。

 

 

+ 

 

 バスから降り、私はパタパタと会社まで駆ける。

頬にあたる風が冷たい。

いよいよ冬大本命前といったところか、今日は今月一番の寒さらしい。

会社の人との朝の挨拶に度々「寒いですね」と漏らしてしまった。

 

長嶋さんから今日も新たなお仕事を任され、私は書きごとをしたりパソコンにむかったりてんやわんや。

あっという間に午前は終わった。

 

カバンから取り出すお昼。

 

あぁ、忘れてた。

 

席を立ってコーヒーを汲みに行く。

また席に座る。

 

卵がおいしそうだけれど先にハムとレタスのサンドを食べる。

…おいしい。

 

 

――――でも、何もない。

 

その背中を盗み見るのが当たり前になって、もう1か月半は過ぎようとしていた。

 

 


イエロー

 

黄色:

 

自分に自信が持てず、意識改革が必要なとき。

 

淡い期待

 

 自業自得…なんだろうけど。

 

私はパソコン脇からいつもするように遠い彼の姿を盗み見た。

藍色がかったストライプの入ったスーツは今日も一生懸命仕事に向かっている。

 

どうやって彼のこと避けてたっけ、私。

ぼんやりと物思いにふけながらふと考えた。

 

こんな風に覗き見ることもしていなかったし、帰るときに彼の姿を確認することもしていなかった。 

仕事?

いやでもイベントの準備が大変で今も忙しいのは変わらないし。

私生活の充実?

いや私趣味といえる趣味は持ってないもんなぁ。

友達?

いや最近は特に遊びに行っていないし。

 

仕事中どころか今じゃ帰宅してからも速水さんのことを考えたりする。

こんな風に覗き見ることすら止めていたのに。

 

ともすると、告白されたてのころよりも速水さんのことを気にしているのかもしれない。

いやかもじゃなくて絶対そうだ。

 

だって。

 

グイっと私はパソコン横にノートを立てらかせた。

 

こうしていないと彼の姿をまたつい見てしまう。

 

 

 

 

自分が避けるのと、避けられるのとじゃ違いすぎるってこと…なのかな。 

 

「避けられたって分かって傷つかないわけない。」

 時間がたったってまだあの表情が思い浮かぶ。 

 

意地の悪い表情じゃなくて、眉がさがって切なそうな――。

 

やっば!

私はガシャガシャとバックスペースと書かれた文字のところを連打した。

 

……せめて謝りたい。

 

避けてた理由は嫌いだとかそういうんじゃないよって。

もっと複雑なものだよって。

 

でもきっと、彼が私に一度も目を合わせてくれないというのはそういうことなんだろう。

 

消しそびれていた“わけない”という画面上に表示された4文字を4回キーボードをたたいて私は消した。

 

 

 

「お疲れ様でしたー。」

 先に上がっていく先輩がたを見送り、私はふう~と息をついた。

 

寒いしコーヒー飲んじゃおうかな。

あと一息、あとひといき、自分で自分を励ますように給湯室へ向かった。

 

う~ん、頑張ってあと2杯分…ってところだな。

確認したコーヒーポットのメモリは半分よりも下。

 

作ろうか作らまいか非常に微妙なライン。

私は観念して、普段よりも少なめに自分が飲む分を取り分けた。

 

「はぁ。」

 口元に当てたコップから白い湯気がもくもくと上がる。

 

おいしいなぁ。

どうしてこう、仕事の合間のコーヒーって格別なんだろう。

家で飲むコーヒーが一番下で、(家で飲むときは大抵朝、仕事行きたくないなって時に気合い注入として飲むことにしているから。)

おしゃれなカフェで飲むのがその次、

仕事にひと段落着いたときに飲む給湯室が一番上。

 

あ、一個重要なのを忘れてた。

あの缶コーヒーも同じくらい好きだ。

憧れの人からのお疲れさまコーヒーはたまらないじゃない?

だから給湯室のコーヒーと缶コーヒーとで同率一番ってことになる。

 

って何私順位づけしてんだろう。

 

最後の一口をずずっと飲み干した。

 

 

 

「来ないか…」

 

 前ならこうやって油断していたらいつの間にかやってきていて、

 

からかい口調で私を弄んでいくから、

あわてて私は逃げていく。

 

少しだけ……後ろ髪をひかれながら、私は逃げていく。

 

 

ばか。だから私が悪いんだろって。

 

私こんないじけた奴だたっけなー、何だらだら文句垂らしてんだろう。

避けずにちゃんと思ってること吐けばよかった。

 

そしたらきっと今にその空いているドアからひょっこりきたんだろうな。

 

「市田、お疲れさま」って―――。

 

なんてね。

私は紙コップをゴミ箱にいれ、手を洗った。

 

 

「お疲れ。」

 

 

……え?

 

 

 

 ばっと振り返った私は

 

黒のスーツがすぐに目に入って

 

「お、お疲れ様です。」

 最初だけたじったけれどそのまま挨拶をした。

 

「まだコーヒー残ってるかな?

オー残ってる残ってる!」

 

 ご機嫌な彼が私の横に立つ。

 

「長嶋さん今週残業ばかりですね。」

 徒労感をねぎらいながら私は言葉を口にする。

 

「うんー、早く帰りたいけど…。」

 こぽこぽっと長嶋さんは、遠慮なしにコップいっぱい注ぎ切ってしまったようだ。

 

…速水さんならなんとなく少し残してそう。

意地の悪い印象ばかりの彼なのに、変なことでそう思った。

 

 

 

「もうあがり?」

 

「あとちょっと残ってます。」

 

「9時来るしあがりな?帰り寒いぞ。

どうせ、あれだろ?」

 長嶋さんは私の今抱えている仕事のことを話し始めた。

 

「あれは下の奴らに任せたらいんだからそんな気つかわんでも。」

 

「はい…、すみません。」

 イベントの準備は特に私が手伝う義務はないのだが、

自分が企画に携わっておきながら何もしないのはどうしてもいやで、少々自分の仕事をおろそかにしがちだった。

 

「自分のができてなかったら結局だめですよね……ハハ。」

 苦笑いしながら残っている大量の雑務を思い出す。

 

「まぁそういうのがお前のいいところだけどな。

真面目で実直で、何もかんも背負い込む。」

 

ポンと長嶋さんは私の頭に手を置いた。

 

「もう少し俺とか他の人にだって頼っていんだからな。」

 

「…はい。」

 長嶋さんって理想の上司だ。

こんな人徳のある人いないよ。

 

私の頭から離れていく長嶋さんの手。

 

傷口に薬を塗ってジーンとするみたいに、彼のぬくもりの残像がしばらく残っていた。

 

 

「あ、いたいた!」

 次の日、外でのある仕事を終えデスクに戻った私に珍しい人が声をかけてきた。

 

 「市田さーん、待ってたんですよ!」

 声の主は私と目が合うや否や、散歩に行けると喜ぶ子犬のような愛い表情を私に向ける。

彼のお尻には、機嫌よさげに左右に揺らす尾が生えているようだ。

 

「俺、朝から探したんですよ。」

 すると今度はしょぼーんと細い眉がさがる。

さっきまでご機嫌だった尻尾がだらーんと落ち込んだみたい。

 

「ごめんごめん!午前は外での仕事だったの。

それにしてもどうしたの?

 

内川くんが私に声かけてくるなんてすごい珍しいけど。」

 

「いやー、そんな大したことじゃないんですけど…。」

 ちらりと彼は一瞬目線をどこかに外して私にまた合わせた。

 

「明日また飲みたいなって。」

 

「…あ、そういうこと!」

とんと検討がついていなかった私だったが、その一言ですべてを理解した。

 

「長嶋さんに掛け合ってくれないかってことでしょ?」

微笑む私に、

彼はなにかんでこくんと小さくうなずく。

 

「1度飲ませていただいたとはいえ、声をかけて飲み行きましょう!

なんて隣の部署の俺がなれなれしいかなって…。」

 

 私経由じゃなくても全然大丈夫なのにな、

本人に素直にそう伝えれば絶対長嶋さん喜ぶだろうに。

 

内川くんって律儀だな…。

 

「長嶋さんにあとで聞いてみるね、明日の仕事終わりだね。」

 

「お願いします!

結果は俺のLINEに連絡してきてください、俺これから外に出るんで!」

 

「うん、分かった。」

 

 連絡持ってたかな、そう一瞬脳裏に浮かんでしまうぐらい使っていない彼の連絡先。

確か実際に使ったのは数回だったはず。

随分前に同期のみんなとごはんに行ったときに交わした、内川くんの連絡先がこうして生きてくるとは…。

 

そのままちらりと私は今デスクの上に置いた携帯を一瞥した。

 

飲み会か――――その言葉から派生したあること。

 

パソコンの画面の左側にアングルを集中させながら、

「内川くん…。」

 気にかかったそのことを私は口に出した。

 

 

 

 

「はい。」

 

「速水さんはちなみにいる…の?」

 

 どくんと心臓が鼓動する音が聞こえた。

 

「勿論ですよ。」

 

 過敏になった私を無視して、呆気なく内川くんから答えが飛んでくる。

 

「そっか…。」

 

 いるんだ。

 

 

「3人飲みかぁ、あと1人誘えばいいのに。」

 私はその場を繕うように笑いながらそんなことを言った。

 

「あれ市田さん、仕事切羽詰まってる感じですか?」

 

「いやまだ余裕はあるけど。」

 内川くんに視線を戻す。

 

「びっくりした、3人で飲むとか言い出すから。

市田さんも参加ですよ、もちろん。」

 

「え?ちょっと…」

 

私がまだ喋っている途中だというのに、

 

「今、余裕あるって言ったんで断りはなしですからね。

断っていいのは長嶋さんだけです。」

 

と言って私の言葉を掻き消す。

 

 

「場所はこの間と同じところでいいかな~。

時間はもちろん長嶋さんの都合に合わせますので。」

 

「あ、うん。」

 

ってまた長嶋さんかい。

 

 

「ま、ここで決めても長嶋さんの都合が悪かったら元も子もないので、

それも連絡で決めましょう。」

 

「了解です。」

 

 

「じゃぁ俺もう行かないとなんで。

LINE待ってますねー!」

 

それだけ言うと、今度は私の「じゃぁ。」の字も聞かず疾風のように去っていった。

 

……内川くんは律儀だって言ったけどやっぱり撤回。

律儀な範疇は長嶋さんだけらしい。

 

 

しかし、怒涛のようだったな。

 

苦笑いを浮かべながら、

鞄から取り出したスケジュール帳の3と書かれた日付のところに「食事」と簡単に書く。

 

 

……飲み会か。

 

この間は自分からは逃げれなかった。

でも今度は違う、今ならまだ断れる。

 

連絡しておけばいいんだもん、私は用事があるって。

 

 

…だけど、話さなきゃ。

 

あの人に。

全部。

 

パソコン横に立てらかしてるノートの正体の気持ちを。

 

 

 

私は席を立った。

 

長嶋さんの仕事が切羽詰まっていませんように、そう思いながら。

 


誤解のからまわり

 

 

 ふらふら左右に揺れている黄色い猫のおもちゃの前、私は後ろにくくった髪を結びなおす。

出勤している日に髪のことを気にしたのはいつぶりだろう。

くくり直したことなんかあっただろうか。

 

それでも今日は朝巻いたおくれ毛がいまだふんわり保たれてることに嬉しくなったりしてる。

逸る気持ちも少しだけ収まったかな。

 

頭をぐるりと斜め上に向けて後ろ髪の様子もチェックする。

お店のお手洗いということもあってさすがに鏡のサイズは大きい。

 

水面台は3つ並んでいるけれど私以外に誰もいない。

個室の中にもだ。

まだ会社終わりに飲みに来る人のラッシュには早いのか私は3つある個室のトイレを独占中、といっても呑気にここで容姿確認している場合でもない。

 

お店に入り簡単な注文を終えてから、長嶋さんに断りを入れて私はお手洗いに今いる。

長嶋さんが一人席で待っているのだ。

私たち二人は誘われた身でありながら早くに仕事が終わったため、内川くん達もまだ来ていない。

 

食事がすでに運ばれていれば長嶋さんも時間をつぶせるだろうけれど

それもなしじゃ居心地もわるいはず。

 

「よし。」

 気合いを入れて私は最後にコツンと猫の頭を撫でた。

 

私が触れたせいで先ほどよりも激しくなる動き。

がんばれって言ってくれている気がした。

 

 

 

「あれ?」

 席に戻って驚いた、長嶋さんの前に既に一人誰か座っている。

 

「おかえり、市田。」

 

「さっき着きましたー。」

 長嶋さんの正面に座り、にこりと笑みを浮かべる内川くん。

 

「ただいまです。」

 もうしばらく彼らがお店に来るまでかかりそうだと思っていたのだけれど予想よりも早く着いたようだ。

自分が思う以上に長時間お手洗いにこもっていたという可能性もあるけれど。

 

速水さんの姿はまだ見えないけれど、彼はもう少し遅れてくるかお手洗いかどちらかなのだろうか。

私はまだそのことに触れず、

 

「早かったね。」

 席に着きながら私は彼に告げた。

 

「あー、本当にさっき着いた感じなんですけどね。」

 

「そっか。」

 カバンの中にいれていた携帯を取り出し、

連絡を確認すると確かに数分前に彼から「着きます!」と1件届いている。

 

「すいません。」

 隣を通りかかった店員さんに内川くんはビールを一つだけ追加注文した。

 

「あれ……」

 疑問に思った私は内川くんに口を出す。

 

「速水さんそんなに遅くなるの…?」

 口に出すには少し勇気がいった彼の名前。

でも思わず私はそう言っていた。

 

「あ、それなんですけど。」

 

 

「お待たせしましたー!」

 間が悪いことに、さっきの店員さんとは別の人がテーブルに頼んだ注文を運んでくる。

忙しくなってきたのか、からあげ、サラダ、ポテトなどてきぱきと運び済ませてあっという間に去っていった。

 

「他なんかほしいものがあったら頼んでいいからな。」

 長嶋さんが彼に優しく言い、

 

「ありがとうございます。」

 にこりと笑った内川くんは本当にうれしそうで、あどけない顔立ちがくずれさらに幼くなった。

 

おてしょうや、お箸、おしぼりを私は配り終わり、

 

「まあとりあえず乾杯するか。」

 という長嶋さんの掛け声で私たちはお酒を手にもつ。

真っ黄色の上にもくもくと白い雲がおいしそうに泡立っている。

 

速水さんには悪いけど、あとでまたもう一回したらいいよね。

 

「かんぱーい」という二人の声と共に私はコツンとコップを合わせた。

 

「うめー!」

 

「うまいっすね、やっぱり!」

 ハッハと彼らは笑いあう。

 

私もごくりと一口含んで、ほほえましく彼らの様子を見守った。

 

「あ、で、速水先輩なんですけどね。」

 

「うん。」

 

 

「断られちゃって、さっき。」

 

 内川くんの言葉を聞き終わるまでに、私はそっと結んでいた髪留めをほどいた。

 

 

 

「ありがとうございましたー。」

  元気な店員さんの掛け声の後押しと共に私たちは店を出る。

 

「大丈夫ですか?」

そう言って飲み過ぎを心配されているのは、長嶋さんではない。

 

「内川頼むな…

市田は歩いてたらその内酔い覚めてくるから。」

長嶋さんは私とは真反対の方向であることを悔やんでいるようだった。

 

「はい、ちゃんと送り届けます。」

内川くんは困り顔で私を見つめる。

 

「お疲れ様でしたー。」

 ふらふらとした足取りで私は長嶋さんに別れを告げた。

 

頭がガンガンする。

完全に飲み過ぎだ。

なにやってんだ、ばか。

 

顔をしかめながら私は頭を押さえた。

 

「辛かったら言ってくださいね、ゆっくりで大丈夫ですから。」

隣でそう言ってくれる内川くんの優しい言葉がまた私を情けなくさせる。

 

2時間ほどあれから飲んで、私はあんまり記憶がない。

 

ただくだらない話を話して、聞いて

楽しい時間を過ごしたのだと思う。

 

そうじゃなきゃこんなに飲むはずがない。

 

「気持ち悪い。」

やきやきしてきた胸のあたりをぎゃっと私はつかんだ。

 

「どっか座りますか?」

 

 「ううん、大丈夫。本当にごめんね。」

  差し出されたペットボトルのお水を私は飲む。

 

「鬱憤でもたまってたんですか、お酒そんなに強くない市田さんがこんなに飲むなんて。」

 “こんなに”といわれても、どれだけ飲んだかなんて分かんない。

 

 

「うーん…。」

 

飲んでいる間の会話の記憶が浅い中、覚えていることは2つか3つ。

 

1つ目は本当にくだらない会話。

「今年もクリぼっちだー」って内川くんが確か叫んでた。

 

ってくだらなくはないか、ごめん内川くん。

訂正するよ、内川くんの悲痛の叫びの話だ。

 

2つ目は、速水さんの話だ。

彼は来なかった。

「来れない」か、「来なかった」か違いは分からないけど、でも来なかった。

 

3人で私たちは飲んだんだ。

 

 

「寒いですね。」

 はぁっと彼が白い息を吐く。

 

「ね、内川くん。」

 

「ん?」

 

「この間より飲んでないみたいだけど、私のせい?

一番飲みたがってたのにごめんね。」

 頬にあたる冷たい風とあのひとによる空虚感が酔いをさましてくる。

 

「飲んでます、飲んでます。」

 彼がかわいげな表情を浮かべる。

弟がいたらこんな感じなんだろうか。

 

「強いていうなら市田さんが今日飲んでるから、しっかりしなくちゃなって。」

 

「…ん?」

 

「人って守りたい人がいるとちゃんとしようって思うっていうか、

俺がやらなきゃ!みたいな使命感が出てくると思いません?

そんな感じです、俺は今。」

 彼はそう言って照れたのか笑った。

 

「速水さんには守られる立場なんだね、じゃぁ。

この間は全然ピシッとしてなかったから。」

 からかうとばつが悪そうに彼はまた笑う。

 

 

「速水先輩、来たらよかったのになー。」

 白い息が内川くんの口から漏れた。

 

「ねぇ。」

 

「んー?」

 

「速水さん…なんで来なかったの。」

 

もしかして、私のせい?

 

「理由は聞いてないんですよー、

俺、仕事終わって会社前で待ってたんですけどね、やっぱいけねーって連絡来て。」

 

「そっか。」

 

「まぁ朝から忙しそうにしてたから大丈夫なのかなって思ったんですけど。」

 

 電車の音が遠くから聞こえてくる。

 

「じゃぁ仕事があったのかな。」

 

「かもですねー。

あんまり誘って振られることないから大丈夫だと思ったんですけどね。」

 

「……そう、なんだ。」

 

「速水先輩がいたらもっと楽しかったのにな~。」

 ポケットに両腕を彼は突っ込んだ。

 

あんまりのタイミングに、私ははまってしまったのか。

 

 

「私がくるって知ってたの?」

 

「速水先輩がですか?」

 

こくんと私は頷く。

 

「知ってましたよ。」

 

「そっか。」

なら避けられてるって可能性はちょっとは減るのかな。

 

「朝会った時に言ったんですけどね、

長嶋さんたちオッケーでーすって。」

 

「朝?」

 

「朝です。」

 

え、それじゃあ…

 

朝私が来るってことを知って、

夕方やっぱり行くのやめようって思って避けた…、ともいえてしまう。

 

「でもまた今度誘えばいんですから、懲りずに4人で改めて飲みましょ。」

 

「うん。」

 

また今度、か。

 

 

 

「じゃぁ俺ここですけど、市田さん大丈夫ですか?

バス停までよかったら送りますよ?」

 

「ううん、本当に大丈夫。

歩くの付き合ってくれてありがとう。

今日も誘ってくれて、本当楽しかった。」

 

「ならよかったです。」

 内川くんの笑顔が私の心にぽっと小さな火を灯す。

 

「あ、市田さん!」

 

「じゃぁ」と言いかけた私だったが、彼のその言葉に「何?」と聞き返した。

 

内川くんは黒の真四角のカバンの中から、携帯電話を取り出すと、ポチポチと何回か画面をタップした。

 

何だろうと思いながらなんとなく私も自分の携帯を取り出す。

すると数件、内川くんから連絡が届いているようだった。

 

「何送ったの?」

 直接言えばいいのに、と私は笑った。

 

「速水先輩の連絡先送っときます。

さっき、長嶋さんの連絡先ゲットするの手伝ってくれたから。」

 

「……え?」

 

そうだ、3つ目。

内川くんは長嶋さんの連絡先が知りたいとのことで、私が長嶋さんに確か言ったんだ。

「内川くんに連絡先教えたらどうですか。」 って。

それで私が送ったんだっけ、長嶋さんの連絡先を、内川くんの携帯に。

 

「速水さん、女の子のお誘いは破らないと思うんで、

市田さんからも速水さんに飲みましょうって送っといてください。」

 

「や、いや、内川くん?」

 

「じゃぁおやすみなさーい!」

 

 手を振りながらキャンキャンと内川くんという名の犬が駆けていく。

 

も、もう!

なんでこう内川くんって去り際に爆弾を落としていくんだろう!

 

「どうしよう…。」

 

速水 至

 

私の携帯にその名が表示されている。

 

 

 

 

 次の日の土曜日、「えい!」という掛け声とともに彼を追加した。

 

それまで画面上にはなかった、新しい友達+1という文字が呑気に表示されるようになる。

 

分かったから、もう表示してくれなくていいってば!

 

決まって現れるその文字を見るたび、どきっと私の胸が激しく鼓動するんだ。

昨日までは何とも思わなかったその機能がとてもじゃないが嫌で仕方がない。

 

少したって、新しい友達の欄が消えると彼が入ってくるまでのLINEに戻ったようで気が収まった。

 

だから調子に乗ってつーっとスクロールしちゃったのが余計なことだった。

もしかしたらいないのかもしれない、そう変な思い違いを起こすところが私のダメなところだと思う。

 

「う。」

 

はの欄に彼の名はやっぱり並んでいた。

 

がくっと頭を落とし、私は携帯を机の上におく。

 

結局何をすることもなく、そのまま土曜日は追加するだけで一日を終えてしまった。

 

 

 

 日曜日。

私は起きて、時計の針を確認するために再び携帯を開く。

 

昨日はあれから全然携帯に触れていないので充電の残量も昨日のまま、半端な45パーセント。

 

なくなった約55パーセントの電気は速水さんの連絡先をどうしようかと迷っていた証。

 

起きて早々、昨日の問題があっけなく私の心と頭を支配してくる。

内川くん、あの調子じゃ速水さんに

「市田さんに連絡先教えますよ。」なんてアシストもしてくれてないんだろうな。

 

突拍子な思い付きって空気が露骨に出てたし…。

別れ際の内川くんの顔を思い浮かべていた。

 

「何て連絡したらいんだよー。」

 1か月半も喋ってない、気まずい感じなのに。

 

私はホームを開いた。

このまま連絡しないってのも一つの手かな。

まずいことになったらその時はなんやかんやで誤魔化せばいいことだし……

 

あれ、なんで?

開いたホームには、また新しい友達のところに誰かがプラスされていた。

 

速水さんがまた表示されるようになっちゃったの?

ところが名前を確認すると全く見当がつかない知らない人の名前がそこにある。

 

なんだ、たまにある悪戯のやつか。

私はタップするとすぐにその人のブロックを完了させた。

 

一件落着、もういっか。

連絡した方がいいと思うけど、やーめた!

ポーンと私は携帯をベッドに投げ捨て、朝食の準備に取り掛かる。

 

卵を一つ焼く前にハムを一枚ひいて、茶色の焦げ目をつけたらプルンとおいしそうに卵を落とす。

時々卵から鳴る、空気が破裂する音が私の食欲を一気にかき立てた。

 

そのまま小皿に移して、昨日の夕飯の残りであるトマトを添え、

茶碗にご飯を盛ると、「いただきまーす」と私は勢いよく食べ始める。

 

おいしい、幸せだ……!

パク、パク、白いご飯の2口目を口に入れたとき、私はベッドに投げ捨てた携帯を見た。

 

「……やっちゃった。」

 

誰か知らない人をブロックしたとき、一つ重要なことに気が付いていた。

気が付いたからこそ、私は朝食づくりという名の逃避に勤しんだ…。

 

昨日は気が動転していて忘れていたこと、

でもとても大事なこと―――

 

追加したら、

相手のところにも私の連絡先がおすすめされるようになるんだっけ。

 

 

それってつまり、

 

速水さんに、

私が速水さんの連絡先を追加したってことがばれているってこと……。

 

ガクッとさがる私の頭。

私の脳内には、バッハのトッカータとフーガニ短調が流れていた。

 

 

 

「まずいまずいまずい!」

 一気に私の頭がパニックに陥る。

 

「送らない訳にいかなくなっちゃうじゃん!」

 

どうしよう、なんて送ろう。

携帯を手にした私は思いついた文字を打ち込んでいく。

 

『お久しぶりです、市田です。

内川くんに連絡先教えていただきました。

一昨日の飲み会は3人で失礼しました、

また機会があれば今度は4人で行きましょう。』

 

ってこれじゃ、私が内川くんに連絡先聞いたみたいになっちゃうじゃん!

 

何でお前俺の連絡先知りたがってんだよ、って速水さん絶対なるし!

 

いや、別に知りたがってないし!

内川くんが強制的に送り付けてきたわけだし!

 

といっても本音言うと

内川くんに長嶋さんの連絡先教えたとき

速水さんの連絡先持ってるのかなってちらついたのも確かで……。

 

やーやーとにかく!

これはもういろいろ問題があるからボツ!

 

一気に文字を消すと、うーんと考えてまた新たに打ちこんでいく。

 

 

『お疲れさまです、市田です。

内川くんに長嶋さんの連絡先を教えたので、

私もその際速水さんの連絡先をいただきました。

 

内川くんが昨日は速水さんがいないと残念がってましたので、

また別の機会を設けてあげてください。』

 

……長い。

 

口で言ったら別にそうでもないのに文字で送るとなると長い…。

 

絶対これ見た瞬間「う」ってなるよ、速水さん。

 

もっと短く。

もっと端的にしなきゃ……。

 

 

『休日に失礼します、市田です。

一昨日の飲み会楽しかったです、速水さんはお忙しかったんですか?』

 

って来なかった理由聞くのは…!

 

速水さんは私がいるのが嫌で来なかったってこともあり得るんだし、

自分で墓穴を掘ってるようなもんだ。

 

これは当然ボツ、ボツ。

私はバツ印のところをタップする。

 

でもすぐにタップするのをやめた。

 

なんで本当に来なかったんだろう。

いろいろ話したかった、話さなきゃいけないこといっぱいあったのに。

 

仕事がもし理由じゃなかったら、

来なかったのは、確実に、

 

私に呆れたってことだよね。

 

 

避けたのは速水さんのことが嫌いだったから。

本当はそうじゃないけど、あの飲み会の後の会話で

速水さんがそう勘違い起こしていても不思議じゃない。

 

としたら、私のこと嫌いなって当然だ。

避けたとして当然だ。

 

私だって嫌いだと思われている人に近づこうだなんて思わない。

 

 

「……ばかだな、私。」

先ほどは消さなかった文字を今度は間違いなく私は消した。

 

真っ白になるスペース―――

私は新たな文字でそこを黒くしていく。

 

 

『市田です。

内川くんに連絡先伺いました。

 

また4人で飲みたいです、速水さんも今度は絶対一緒に。』

 

 

 


A.M?P.M.?

 

 

 ピピピ――、私の携帯がけたたましいほどになる。

 

「……朝か。」

 いつもなら5分後のそのまた5分後のそのまたそのまた5分後に仕掛けている6時15分に起きるはずなのに、

今日は1回目のアラームで私は目を覚ました。

 

上半身だけ布団から体を出すと、横に置いているストーブのスイッチを入れる。

何年か前から使っている随分古いやつだから、そいつは3分ほど待たなきゃ部屋を暖めてくれない。

 

私はまた体を布団の中におさめて、すぽっと頭までかぶりかまくらのような体勢で携帯を開いた。

 

「……ハハハ。連絡来ず。」

 開いた速水至と書かれたトーク。

ぽつんと私が送ったメッセージだけがのっかっている。

 

むなしいな~。

既読すらついていないのを見るとかえってすがすがしい。

 

昨日送ってからしばらくはそわそわ私もしていたけれど、

日が暮れてすっかり夜になってしまうとそんな躍動もなくなってしまっていた。

 

その代わりに嫌なものが、朝を迎えた私の心に生まれてしまっている。

 

「今日、会社行きたくないよー。」

 横臥からうつぶせの体勢に持って行った私は、すりすりと敷布団に頭をすりつけた。

 

「気まずいよー。」

 顔をあわさないとはいえ一応同じ場所にいるんだ、その一言に今は尽きる。

 

「……もう1回寝よう。」

ボッという音ともにストーブの稼働音が聞こえ始めた。

 

しかしもう時間は来てしまったみたいだ。

ボッという音ともにストーブの稼働音が聞こえ始めた。

 

まったく、卑しいストーブだ。

もう起きろとばかりに責き立て働き始める。

 

「はいはい、起きますよーだ。」

私はガバっと布団を剥いだ。

  

 

 会社につき、席に座るや否や私はすぐに今日は使う用事がないノートを立てらかした。

 白いコンピューター画面の横に不釣り合いな黄緑色のノートがそびえたつ。

 

立てらかしたときに藍色の背中が見えなかったあたり彼はまだ来ていないようだ、

私はほっと胸をなでおろした。

 

さ、仕事仕事。

パソコンを起動させカバンから書類を取り出した。

 

 

 

 午前中にあった今日一番の大詰めである会議を終えると、私はそのまま昼食に入った。

相変わらずノートはそこにある。

 

まぁよく考えたら

1か月半何も彼となかったわけだからそう都合よく、

今日に限って面会するなんてヘマ起こるはずないんだけど。

 

「はぁ。」

私は一つため息をついた。 

 

慰めるように鞄にいれていた缶コーヒーを取り出しそれをカチャっと開ける。

長嶋さんが差し入れしてくれた牛の柄の奴だ。

給湯室も利用しているけど、頑張った人か気合い入れる人か理由をつけてはこれをたまに買って贅沢してる。

差し入れしてくれた日に飲んだそれとは味が落ちるけどね。

 

午後はこの間提出した奴の見直しして、来年の企画書を見直して、えっと資料は……青いファイルだっけ。

さっき会議に間違えて持って行っちゃったからこの横の塊の中だな。

 

デスクの隅にタワーのように7冊ほど積み重なったファイルをじろりと見た。

 

早く食べなくちゃ。

パクっと手に持っていたおにぎりを頬張った。

 

 

 

 「あれ、ない…。」

おかしいな。

間違いなく会議のときはあったんだから、忘れたってことはないはずないんだけど。

 

先ほどまでしていた別の案件の仕事が終わり、

来年の企画書の作成に取り掛かろうとしているときだった。

 

例の青いファイルが必要な仕事だ、

でもその肝心のファイルが山のようになったタワーから見つからない。

 

 

早く取り掛からないと終わらないのに―――

 

時計を見るとすでに3時を回っている。

 

 

「品川さん、今って会議室どこか使ってますかね…?」

  たまらず隣の席で仕事に向かっている彼女に声をかける。

4つ年上のうちの会社じゃ滅多にない、比較的最近他部署から移動してきた女の人。

結婚している彼女は家庭があるので大抵帰りが早く、こうして仕事中ぐらいしか話す機会がまだない。

 

「どうかな、ごめん分かんないな。

何の用事?」

 

「ファイル、会議室に忘れてきたかもしれなくて…。」

 

「そっか……。

 

ノックして入ってみたら?

重要な会議だったらドアに札かけるようになってるしさ。

札なかったら大抵探させてくれるんじゃないかなぁ。

 

大丈夫だよ。」

 

彼女のおっとりした口調に私も気持ちに余裕が生まれる。

 

 

「じゃぁ行ってみます。」

 ぺこりと会釈して私は会議室に向かった。

 

 

 給湯室よりも向こう、白いドアの会議室前まで私は歩み寄る。

なんとなくぬきやしさしやしで。

 

給湯室のドアは開けっ放しで誰かが電話しているようだったけれど、

後ろめたい気持ちからその誰かに見られてしまわない様すばやくそこだけは走った。

 

肝心の会議室のドアノブには札はかかってはおらずひとまず安堵、

 

続けて音をたてないように耳を傾け中の様子をうかがうのだが、

給湯室からのこそこそと喋る談話の声が邪魔をしてくる。

 

……う~ん、大丈夫かな?

札はないけどどこか感じる怪しい雰囲気。

勘というやつだ。

 

ドアの上部についている小窓からこぼれる光が電気がついているように見えるけど、

太陽の光がこぼれているようにも見える。

 

やっぱりやめとこうかな、でもあのファイルは絶対必要だし…。

 

交差する思い―――行こういややめとこう、行こういややめとこう何度も私は繰り返す。

 

ま、品川さん大丈夫だって言ってたし信じてみようかな。 

だめだったら長嶋さんに相談だ、

なるべくそうなってほしくないけど…。

 

そっと私は手を顔の前で合わせた。

お願いします、どうか会議していませんように。

していたとしても、ファイル探させてもらえますように。

 

というかそもそもファイルここにありますように。

 

 

 コンコン。

 

「失礼しま……す。」

腰を曲げおずおずとドアを開けた。

 

頭を下げているからつるつるの灰色の床が目の前にまず入ってくる。

完全に開くまでに途中から室内の電気が漏れてきたことから、使用中だったことにすぐに気づいた。

 

そして

「内川どうだった?」

 

 その声で使用している人が誰なのかも。

 

藍色のスーツが2番目に目に入った。

 

 

 

 それ以上、私はドアを開こうとはしなかった。

まだ半分もドアは開いておらず、

中をそろりと覗く不審な恰好をいまだとっているというのに。

 

速水さんだ、そう心でつぶやくだけ。

丸いテーブルの向こう、こちらを向いて座っている彼を私の瞳にただ映す。

 

不思議と顔をみたら気まずさはどこかへ消えていた。

会社に行きたくないと思うほど、気まずくてたまらなかったのに。

 

でも、それよりも今は彼が今私のことをどう思っているかのほうが気になって仕方がなかった。

 

手に持っている書類を眺めていた彼はそれから視線を外して頭をぐいっと私の方にあげた。

 

「おーい何してんの……」

 

あ。

目があった。

 

「…市田。」

 彼が小さく私の名前を呼んだ。

何でお前がここに、そう言いたげな表情をしながら。 

 

二人で顔を見合わせたまま、

 

「どうしたのー?」

 という高い声と、カツカツと床に響くヒールの音が3、4回聞こえたかと思うと

ドアノブを向こうから引っ張られ、私はぐいっと室内に数歩入りだされる。

 

「あれ?

えっと、市田さんですよね?」

 私の目の前で、緩くウェーブがかかっている茶色い髪をさらっと揺らしながら

婉麗な顔がきょとんと可愛らしくとぼけた。

 

「あっ、はい。」

 

木野さんも、いたんだ。

 

「すみませんご使用中とは知らずに……。」

 

てっきり速水さん一人だと思った。

ドアの向こうで彼女は隠れていたらしかった。

 

「どうされたんですか?」

花の香りがする、とってもいい匂いな。

 

「えっと、あの、会議室に探し物がありまして。」

 喉に物でも詰まったように虚ろに答えた。

 

速水さんの顔色を窺おうと思ったが、木野さんが前に立っていて

先ほどまで見れていたはずの彼の姿をすっぽりと隠してしまっている。

 

「そうなんですか、私たち今ここで話してて。」

 

話って仕事だろうか私事だろうか。

 

「使用中だとは存じ上げず申し訳ないです。」

 彼女の優しそうな笑みに私も微笑み返した。

 

見れば見るほどきれいな人だった。

話すたびふわりと揺れる彼女の艶やかな髪の毛は、あの日くくり直した私のものでさえ適いそうにない。

 

 

もう戻ろう、邪魔しちゃ悪い。

ファイルは彼らが去ってから探しにいけばいいや。

 

そう思って引き返そうとした途端、

 

 

「市田さん何してるんですか?」

 

 後ろから元気な口調で私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

 

「内川くん。」

 手に4つぐらいファイルを持った彼がにこりと笑っている。

 

「もしかして俺に用事ですか?」

 

「え?」

 

「さっきまでお得意様から電話がかかってきたんで、おふたり方に少し待ってもらってたんですけど。」

 ここに来る途中で聞こえてた、給湯室で電話している人は内川くんだったんだ。

 

「内川くん電話大丈夫だった?」 

 木野さんが優しく彼に尋ね、

内川くんの簡単な返事を聞くと木野さんは自分がいた席に戻った。

 

「それで何の用事ですか?」

 

「ううん、違う違う。」

 手を胸の前でぶんぶん振る。

 

「探し物があって、」

 

「探し物ですか?」

 

すると突如、ポスという気の抜けた音ともに私の頭に小さな衝撃が落ちてきた。

 

「いたっ。」

 反射的に出た声。共に「何?」と私は振り返る。

 

ドキ。

途端に心臓が大きく動いた。

 

10センチぐらいしかない距離で彼がいたからだ。

 

彼は私の頭をこづいたとみられるノートか何かを私の頭に乗せていた。

 

「内川、俺今日結構切羽詰まってるから。」

 

「あ、すみません。」

 内川くんは焦った様子で私の脇をささっと通り過ぎる。

 

「お前はこれだろ。」

 速水さんから私はそれを受け取った。

 

「あ…りがとうございます。」

 見つけてくれたんだ、青いファイル―――。

 

「おっちょこちょい。」

 

「なっ!」

 顔をあげた時には、席に戻っていく彼の背中しかもう見えなくて

どんな表情をしているのか私には分からなかった。

 

 

「お仕事中に失礼しました。」

 静かに私は扉を閉める。

 

今度はどっかにやってしまわないように、ぎゅっとファイルを抱きしめて私は自分の席へと戻った。

少しだけファイルから彼の苦い香りがした気がした。

 

 

 それから4時間ぐらいが経って時計の針が7を差すようになったころ、トントンと私の背中を誰かが叩いた。

 

「…はい。」

 長嶋さんだと勘ぐっていた私は内川くんで少し驚いた。

 

「お疲れさま、さっきはごめんね。

どうしたの?」

 速水さんもそうだけど最近は内川くんとも親交を持つようになったから不思議。

人生って何があるか分かんない。

 

「連絡してくれました?」

 陽気な彼が変に声の調子を抑えていた。

 

「……誰に?」

 顔を緩めた彼が私にささやいてくる。

 

「先輩に。」

思い出したくないことを――。

声を抑えているのは、遠いとはいえ席に速水さんが座っているからなのだろうか。

そうなのか否かかはノートのせいで私には分からないけど。

 

というか…

 

「内川くん、なんで私に速水さんの連絡先教えたの?」

 金切り声で攻めたいところだが、我慢して声を抑えた。

 

「4人で飲むとき調整しやすいじゃないですか。」

 

……まあそうだけど。

 

「う、内川くんは長嶋さんに連絡したの?」

 

「したんです、したんです!

今度お昼休憩一緒にどうかって誘われちゃいました。」

揚々としてきた彼。

 

「よかったね。」

 私は返事返ってきてない…。

ぐさっと内川くんに刃物でえぐられた感覚がした。

 

 

 

「そうそう速水先輩、金曜日はお仕事で大変だったそうですよ。

さっき聞きました。」

 

「……それ、本当?」

 

「はい、聞いたらそう言ってくれましたよ。」

 

「そ、なんだ。」

 

私のことが嫌で来なかったわけじゃないんだ。

 

「じゃぁ、誘ったらまた来てくれるよね?」

 

『速水さんも今度は絶対一緒に。』

送った文章を私は思い出していた。

 

「勿論ですよ。」

 

「それに、速水先輩は優しいって市田さんこの間知ったばかりじゃないですか。」

 

飲み会の日自分の駅が通り過ぎているにも関わらず、速水さんは私たちを送ってくれた。

内川くんがいっているのはそのことに違いない。

 

「うん、だね。」

 私は微笑み返えした。

 

「じゃぁ俺、もう今日はあがりなので。」

 

「そうなんだお疲れさまでした。」

 

 私はもう少し頑張ります。

ふーっと息を吐きながらデスク上に広がった資料を見て気合いを再注入する。

 

「あれ?市田さんもそのコーヒー好きなんだ。」

 内川くんはデスクの隅に置いていたお昼飲んだコーヒー缶を見てそう言った。

ファイルの件があってすっかり私は捨て忘れていた。

 

「うん、そうなの。

長嶋さんに残業中、前いただいたことがあって

それ以来これ好きになっちゃって。」

 指で軽く缶をはじきとばして音を鳴らした。

 

「長嶋さんか。なんだ、てっきり。」

 

「てっきり?」

 

「先輩にいただいたのかと思っちゃいました。」

 

「速水さんに?なんで?」

 そんなわけないでしょと私は笑いをこぼす。

 

「結構置いているところ少ないんで、

速水先輩しか飲んでいる人見たことなかったんですけど。

 

長嶋さんも飲むんですね、知らなかった…。」

 

 

「速水さんからなわけないよ、上司でもないのに。」

 

それにあの日遅くまでいたのは私と長嶋さんと、少しの人だけで、

 

速水さんは―――速水さんは……あれ。

彼は帰ってたよ…ね?

-

 

「では市田さん、お疲れさまでした~。」

にこにこ彼は立ち去っていく。

 

もしかすると今日も内川くんは爆弾を落としていったのかもしれない。

 

 

 

 カタンと私はエンターキーを押した。

 

「できた~。」

 小声で叫びながら、ぐっとそのまま両腕を天井へ突きだす。

時計を確認するともう9時を迎えようかという時刻。

 

窓の外は真っ暗で、同じ部署内で残業している人といえば資料室に行っている長嶋さんぐらい。

それ以外は他部署の人のあるデスクの明かりがついているだけで、その人も今はどこかへ行っているのか姿は見えなかった。

 

静かなオフィス。

黄緑色のノートもお役目御免で、数時間前からその姿をデスク上から消している。

 

私は机にうつ伏せると「はぁ。」と一呼吸ついた。

左ひじがじんとする。

隣に置いている青いファイルがぶつかっているからだ。

 

無意味に私はぱらぱらーっとファイルのページをぱらつかせた。

苦い香りがする、そう思った。

 

ちょいと視線をファイルから上にやると、缶コーヒーに描かれている牛が私に笑いかけている。

かわいいデザイン、そう思っていたけど今日の牛は私を嘲け笑っているよう―――

 

もし速水さんからなら。

私、どうするよ…。

 

牛は私をまたも見下す。

牛の視線から逃れるようにもう一度ページをぱらつかせた。

 

あれ。

パラパラ――と最後の一枚が手から落ちる。

 

今なんかあった。

引っかかった私はまたページを全部手に取り、もっとゆっくりぱらつかせた。

 

 

あった。

体を起こし、ぺたりと貼ってあった付箋を見つめる。

仕事中には見なかったページだ、後ろの方だから分からなかったのだろう。

 

変なの、私薄い黄色の長細い付箋なんか持っていないのに。

どっかのが間違ってついちゃったのかな。

 

文字は何も書かれていない。

私はページから付箋を剥いだ。

 

その瞬間、粘着力がないところ、反転した文字が浮き上がってくる。

 

裏に書いてる?

ひっくり返すとただ短く。

 

『無理しないこと。』

 

それだけ。

仕事関係のメモじゃないから誰も困ったことにならず、とりあえずはよかったとして。

それで、これは誰が書いたんだろう。

 

一番考えられる長嶋さん…にしては渋い字だし、筆圧もちょっと濃い。

文字の雰囲気から女の人の字では間違いなくない。

 

私は缶をちらっと一瞥した。

牛の笑みは変わらない。

 

ね、牛さん。

 

もし、……今私が考えていることが本当だったら、

ばかなことをしちゃったって私はひどく後悔することになるんだけど、

 

君はどう思う?

 

「……。」

当然牛は喋らない。

 

代わりに私は一度付箋の匂いをかいで。

カバンに入れている、スケジュール帳の後ろにある無地のページにそれをぺたりと貼る。

 

本当ばかなことをしたもんだ。

その証拠に青いファイルから苦い香りがもうしない。

 

 

「市田終わったかー?」

 

「はい!」

 後ろから聞こえた長嶋さんの声にびくっと私は感傷から呼び戻される。

 

「うわー外寒そうだな。」

 彼はコートを着て帰り支度を早速始めていた。

本日の仕事は終わった模様だ。

 

慌てて私もデスクの上を片づけ始める。

 

十分カバンにしまう時間があったというのに、今だデスクの上に仕事用具は散らばったまま。

 

青いファイル、筆記用具、スケジュール帳、そしてコーヒー缶―――。

 

「長嶋さん。」

 

「ん?」

 

 私は手に持ったコーヒー缶を一瞥して、

 

「…いえ、何でもないです。」

 そう言ってにっこり笑って彼をごまかした。

 

「ん、……あ、そう?」

 若干長嶋さんは私を不審に思ったみたいだったが、

それ以上追及することなく彼は私に微笑み返すだけ、

 

「コート2枚ぐらい着たいな。」

そう、代わりに冗談を一つ落としていく。

 

 

カバンの内部にあるポケットに私はコーヒー缶をすっとしまった。

聞かなくてもいい。

 

聞かなくても、答えは出ている気がする。

 

 

コーヒー缶、ファイル、付箋のメモ、飲み会のビール、お見送り。

私が今見つけられている彼のやさしさ。

 

きっとそれ以外にもまだその人は私に何かしてくれているんだろう。

例え私がそれらのことを聞いたって、彼はひけらかさないんだろうけどね。

 

上手に自分がしたと私に気づかれないよう隠すんだ。

 

 

“あの時”、彼ならコーヒーを残すだろうなって思えた理由が今ならわかる。

 

あーあ、そんな優しい人にひどいことしちゃった。

不誠実に対応した、本当に嫌な奴は私だった。

 

 

 私は携帯を手に取る。

ううん、だめ。

LINEだとまた返事くれないかもしんない。

 

私はデスクの引き出しに入れている長細いピンクの付箋を一枚めくった。

しまった筆箱からボールペンを1本取り出す。

粘着力がある面に書いているから、少し書きにくかった。

 

「市田、ほら俺帰るぞー。」

 長嶋さんがオフィスのドアから先に出て階段へと向かう。

 

「はーい、私も行きます!」

 ペンをしまいカバンを右腕にかけると、

誰も見ていないことを確認して私はそっとパソコンの画面右下にぺたりとくっつけた。

 

 

「うわぁ、階段からもう寒い。」

 

「だなー。」

 私の声が響いて、先に降りている長嶋さんにも聞こえたのか彼から返事が返ってくる。

追いつくように私は急いで階段を降りた。

 

 

8日8時 給湯室。

心でそう一度だけつぶやいた。

 

  

 そのメモを残したからといって、次の日彼と目が合うようになる…ということはなかった。

黄緑色のノートはもう立てらかしていない。

 

それでも私に不安はなかった。

 

その人はきっとメモに気づいて、それが私だと彼は分かって、

そしてその時間に速水さんは来てくれるって。

 

彼のやさしさに気づいたんだ、何もこわくない。

現に彼のパソコンの右下に、私が残したピンクの付箋はもうなかった。

 

 

 

 8日朝8時。

既に出勤していた私は、時計をちらりとのぞいて

あと12時間で付箋に書いた時間だ、ってふと思った。

 

当然仕事は、個人の都合に合わせて量が減ったりなんてしてくんない。

ましてやいつもより多いといっても過言ではないほどだ。

 

万が一にも行けないってことがないようにてきぱきと仕事に身を入れる。

 

そういえば何の因果か、内川くんと長嶋さんがお昼を外に食べに行く日は今日らしい。

彼らに「市田もどう?」と誘われたけれど私は断った。

 

みっちり1時間、彼を待ちたかったので休憩をお昼にとりたくなかったんだ。

 

彼はどうやってその時間に来るのか知らない。

というか今だって彼の姿はデスクにないし……。

 

パチンと私は両頬を軽くたたいた。

仕事だ仕事だ!

 

悩むのはあと12時間後にとっておかないと。

 

 

 そして、真っ暗闇の8時。

深呼吸して、私は給湯室のドアを開けた。

 

 

「お疲れ様です。」

 

「お、お疲れ様です。」

 

 動揺した私はつい声が淀んでしまった。

その人は速水さんじゃないのに。

 

挨拶を交わしたのは隣の部署の男の人だった。

 

私は彼に違和感を持たれないようコップにコーヒーを淹れ、

流し台に寄りかかるとゆっくりそれを飲み始めた。

 

幸いなことに彼はもう出るところだったのか、

2口ぐらい私がコーヒーを含んだところで「失礼します。」と出て行った。

 

ふはぁと私はたまらず深呼吸する。

バクバクバクバクさっきから心臓がうるさい。

 

時計はもう5分をすぎた。

俯いた私の脳裏に、あの日がフラッシュバックしてくる。

飲み会が仕事でこれなかったみたいに今日も都合が悪かったら……。

 

30秒後、

それが杞憂に過ぎなかったことを私は知る。

 

 

「はあ。」

 ため息が一つ。

私のじゃない。

 

顔をあげた私は、びくっとして。

たまらず彼から目線を外した。

 

…いきなりため息つかなくたって。

藍色のスーツに小さくぶつくされた。

 

 

「どうした?」

 先に口を開いたのは速水さんだった。

部屋の中にまで進み、コーヒーをコップに注ぎ始める。

 

「えっと…。」

 話したいことは山ほどあった。

でもありすぎて、どれから話していいか、どういう風に話したらいいか……。

 

「さ、サンドイッチ……食べたいなって。」

 言ってすぐに、ばかって自分につぶやいた。

サンドイッチなんて話したいことに一番かけ離れている話題だ。

 

悔恨の念にかられる私とは裏腹に、

 

彼は可笑しそうに

「うん、いいよ。1個?」なんていう。

 

私はこくんと一度頷いた。

別に欲しかったわけじゃないのに。

 

「3個ぐらい頼んでもいいんだよ?」

 

「そ、そんなに食べないですよ!」

 

「ふ~ん。」

 彼はまだ笑っている。

 

のっけからこの調子、彼の思い通りだ。

ちゃんと話せるかと先が思いやられる…。

 

でももしかして今も彼にすくわれちゃったのかもしんないな。

心臓がさっきよりもおとなしくなってる。

 

 

「ファイル。」

 

「え?」

 

「何落としてんだよ。」

 コツンと彼の小突きが私の頭にふってきた。

 

「すみません…。」

 

「会議室入って足元に目立つ青いものが見えたからすぐ気づいた。」

 

「私のだって…ことですか?」

 私の横に同じように流し台にもたれた彼は頷く。

 

「あんな目立つ落とし物するようなおっちょこちょいは、

市田か内川ぐらいしか思いつかない。」

 

失敬な…とむくれながらも、

彼の綻んだ表情を見ては何もいえない。

 

 

 代わりに

 

「パソコンのピンクの付箋。」 

 そう呟いて

 

「私だってわかったんですか。」

 話を新たに切り出した。

 

「…そうだね。」 

 

「ちょっとだけ、来てくださらないかと。」

 

「どうして?」

 

私は俯く。

 

「怒って…らしてるのかなって。」

 

「怒ってはないよ。

ただ…」

 

「ただ?」

 

「…いや、何でもない。」

 速水さんはコーヒーを飲んだ。

 

ただ…、何だろう?

私も同じことをする。

 

「最近、もしかして残業してる?」

 速水さんが首を傾げる。

 

「あ、はい。ちょっとここのところ…。」

 

「無理すんな、帰りも危ないし寒いし風邪ひくぞ。」

 

私は頷いた。

 

「…っていっても市田は残業するんだろうけど。」

 笑う速水さんにつられて私も微笑む。

本当に安心できる笑顔をする人だ……。

 

「速水さんは優しいですね。」

 

「…意地悪じゃなかった?」

 一緒に仕事をしたとき、そう言っちゃったんだっけ。

彼にからかわれてばっかりだったから。

 

「あの時はそう思ってました。

 

でも、誤魔化しているだけなんですよね?」

 

 彼は私の方を見なくなる。

 

「だいぶ前私のデスクに置いてあったコーヒー缶。

速水さん…でしょう?」

 

「ファイルの中にあった薄黄色の付箋も。」

 

「違うよ。」

 誤魔化すように笑う彼に私はフルフルと首を振った。

 

だけど彼は

「ファイルは落ちてたから拾っただけ。

コーヒー缶は長嶋だよ、俺なわけないだろ。」

 

そう言って、私が予想した通り私の答えを相手にしない。

 

「私、知ってます。

速水さんがどんな字、書くのか。

一緒に仕事させていただいたとき、書かれてた文字見えたから。」

 

珍しく私は強気で食ってかかった。

でも、彼はムキになっている私の気持ちを無視して、また話を逸らす。

 

 

「市田。」

 

「はい。」

 

「俺、怒ってないから。」

 苦笑しながら言う彼、

 

「だからさ、そんな俺の機嫌うかがって無理に取り繕うとしなくていいよ。」

 彼は一気にコーヒーを口に流しいれる。

 

私のは、まだ2口しか減っていない。

 

「4人で飲むとき、このままじゃ気まずいって思ったんだろ?

お前のことだから。」

 

「…気まずくないですよ。」

 負けじと言い返した私に、

 

「飲んだとき嫌そうにしてたくせに。」

苦そうに彼はつぶやく。

 

「あの、それは―――」

説明しようとした私。

 

「もういいよ。」

 

「え?」

 

脆く、私の言葉はプツリととざされられる。

 

「この間の飲み会行けなかったのはただ忙しかっただけ。

市田がいるいないは関係ない。

 

もうこの話は終わりな。」

 口早に言うとぐしゃっと彼はコップを握りつぶした。

 

「飲みの付き合いの場に私情持ち込むほど、

俺は変な歳の食い方してないから。」

 

「だからさ、もう本当俺のこと気にするな。」

 

速水さんは笑って目を合わせてきた。

 

隣にいるのに、なんでだろうな。

目が合っているのになんでだろうな。

今は、遠い。

手を伸ばせば触れられるのに、すごく遠い。

 

そのコップが示す意味を知っているから、すごくすごく痛い。

 

「速水さん……」

 

ありがとうってただ伝えたかっただけなのにな。

気づくの遅くなってごめんなさいって謝りたいだけ。

 

あなたの機嫌をうかがうために取り繕うとして言ったわけじゃない。

そんな理由で呼び出すわけないじゃん――――

 

「速水さん、はやみさん……」

 

避けてたのは違うんだよ。

嫌いだからじゃないんだよ。

 

彼はふっと小さく笑いをこぼした。

「サンドイッチは明日の朝冷蔵庫入れとくから、好きなとき取りな。

お金は飲み会行けなかったお詫びってことで。」

 

そんな私の気も知らないで、

彼は掛け構いなく飲み終わったコップをあっさりとゴミ箱に手放した。

 

「早く帰れよ。」

 

 速水さんは給湯室のドアに手をかけにいく。

ためらいもなく。

振り返らず。

 

1歩1歩ドアに向かうたび、背が小さくなる。

 

あーあ、行っちゃった。

また、当分話せなくなる、1か月半がまた来ちゃう。

 

長いなぁ、今は12月だから今度は2月になってるや…

 

「速水さん…。」

 ぽつりとつぶやく。

 

違うね、今度は

 

「待って!」

 

無期限かもしんないね。

 

 ぐいっと後ろ背の彼のスーツの裾を引っ張った、

 

 

 

 しかし私は大事なことを一つ忘れていた。

彼を引き留めることに意識が全面的に持っていかれていたからかもしれない。

 

「あ゛!」

 左手に持っていたコップから、

勢いよくコーヒーが波打ち、彼の足元横にびしゃんという音。

 

「え?」

 若干つんのめっていた彼も足元を見て、

 

「やっちゃったな。」

 そう言いながらかけていたドアノブから手を離した。

 

彼を引き留めるのがこんな形になっちゃうなんて。

 

「す、すみません。」

 

「大丈夫だから雑巾取って。」

 彼はしゃがんでそれを求めるように私に手を伸ばした。

 

私は雑巾をとり伸ばした彼の手に乗せると、続いて布巾を濡らして彼のズボン裾をふき始める。

 

「俺のはいいよ。

ちょっとだけしかかかってないから。」

 

「コーヒーって少しだけでも匂い残っちゃいますから。

…床拭かせちゃってごめんなさい。」

 彼の制止の声も聞かず淡々とふき続ける私。

 

言っても聞かないと分かったのか観念して

 

「…市田床拭いてくれる?

俺のは自分でやるよ。」

 

と言って持っている布巾と雑巾を私たちは交換した。

 

床にこぼれたコーヒーを拭くついでに、目立ってた床汚れも掃除し始めた私に、

 

「おら、ついでに掃除始めない。」

 速水さんが私から無理やり雑巾をはぎ取って、布巾と一緒に洗面台で洗い始めてしまう。

 

「ちゃんと裾ふきましたか?

匂い残るんですよ。」

 じろりと私は彼のズボン裾に目をやる。 

 

「大丈夫だから。」

 くすりと彼は破顔した。

 

「お前は本当真面目だからいろいろ手妬くよ。」

 

「…そんなことないですよ。」

 

「あるね。」

否定の言葉は間髪入れず。

 

「どういう所ですか。」

たまらず私が聞くと、

速水さんはそういわれると困るとクスリと笑う。

 

「やっぱりないんじゃないですか…。」

 

「冗談。」

 

彼のその言葉に「意地悪。」と言いそうになったけど今は思っとくだけにした。

 

「でも、少なくとも俺は頑張り屋だって市田のこと思ってる。

長嶋もいい子だってよく褒めてるよ、お前のこと。」

 

「…や、めてください。」

 嬉しかったけど、恥ずかしかった。

 

速水さんに言われてるんだから余計だ。

なんか、とっても、くすぐったい。

 

「たまにぽけーっとしてるけどな。」

 まぁその彼の一言で、恥ずかしい気持ちは吹っ飛んでいったけどね。

 

褒められてからかわれて、

コーヒーこぼす前の雰囲気はどこへやら

私も速水さんも普通に話す。

 

そんなとき速水さんは言ったんだ、

 

「長嶋にもよく見るように言ってんだけど、

あいつもあれで結構不器用だから…。」

 

って。

 

やっぱりって思った。

見つけられていない優しさをまた見つけた。

 

「……長嶋さんにですか?」

 

「うん。たまに飲むから二人で。」

 

「隣の部署なのに、私のことを心配して?」

 

「……。」

 返ってこなくなった返事。

 

封切るように私は言った。

 

「速水さんなんでしょう?

付箋もコーヒー缶も。

 

私のこと心配して、長嶋さんに声かけてくれていたみたいに、

してくれてたんですよね?」

 

速水さんは何もいわないでじゃーっと水で雑巾を洗う。

 

先ほどまでの饒舌が嘘みたいに、

何度言ってもそれが俺だと肯定してくれそうにない様子――。

 

 

 でも構わず私はつづけた。

 

「私、ずっと分かんなかったんです。

すぐにからかってくるし、意地悪ばっかりだし、」

 

「……告白してきた人がするようなことじゃない、から、何なんだこの人はって。

 

じゃぁあれは間違いだったのかなと思って、はっきりさせたくて

告白は何だったんですかって聞いても速水さんははぐらかすだけ。

 

好きか嫌いなのか全然分かんない。

速水さんのことどんな人かも全然知らない。

 

仕事中もつい意識してしまうし、支障をきたしそうだったから

これ以上速水さんのこと考えるのやめよう、関係を絶った方が楽だって……

 

だから私は避けてました。」

 

きゅっと水を止める音が響く。

 

「でも、気づいたんです。」

 

「気づいた?」

 

こくんと私は頷く。

 

「速水さんは意地悪で、全然優しくないけど、

でもそれは隠してるだけで、

 

本当はすっごく優しい人だって…。」

 

「優しくないのに、優しいの?」

 くすっと速水さんは意地悪そうに笑う。

 

「…優しくないのに、優しんです。」

 

「だけど。」

 

「だけど?」

 速水さんは洗ったそれらを置いて私の方に向き直る。

 

「気づくのが、私は遅かったのかもしれません。」

 

私は彼の目から視線を床に落とした。

 

「避けたのは嫌いだからじゃないです。

 

今日呼び出させていただいたのも、それを言うためなのと、

ありがとうございますって伝えたかったから。

 

優しいことたくさんしてくれたのに、分からなくてごめんなさい。

避けて傷つけちゃってごめんなさい。」

 

「速水さん。

もう、嫌いになりましたか…?」

 

 視線を上にあげることができず、

 

ただ

 

ポタ、ポタ

蛇口から水滴が落ちる音だけ、私は聞く。

 

 

5滴、いや10滴ほど耳にそれを入れて

 

 

「えっと。」

 彼の声が、はいってきた。

 

 

「俺のこと嫌いじゃないわけ?」

 

ポタ。

滴がまたシンクに落ちる。

 

小さく上下に頭を振った。

 

「…あ。」

 

「あ?」

 一音だけ聞こえて。

続かなくなった言葉に何だろうと顔をあげると

 

「あ、せったー…。」

 ため息交じりな声、その大きな手で顔を覆い隠している速水さん――。

 

「嫌われたんだと思った。」

 言葉を発している今だって、彼は顔にやっている右手をどかそうとはしない。

見える彼の右瞳はそっぽを向いて、落ち着かない様子……

 

でもそのほうが都合がいい。

彼の好色染みたその瞳に今捕らえられたら、私どうしていいか分かんなくなってしまう。

 

「先日の飲み会の時に同じことをお話しさせていただこうと思ってたんですけど、

来てくださらなかったんで、呼び出すしかないなって…。」

 

「あぁ、うん。」

 はっきりとしない返事。

 

「実は今日速水さんから聞く以前に、

内川くんから飲み会来られなかった理由私伺ってたんですよ。」

 

「あ、そうなんだ。」

 まただ…。

ちゃんと速水さん私の話分かってくれてる?

 

「伺う前は私と顔合わるのが嫌で来なかったのかなってちょっと…、」

 

思ってました。という私の語尾はうやむやになった。

 

「嫌なんてあほか。」

うだつの上がらない返事をしてた速水さんが、今度はきっぱりと発したから。

 

「行こうとしてたよ。」

 彼が手をどかして、隠していた表情が露わになる。

 

一瞬速水さんを盗み見みたものの、

「はい。」と頷く私はまだ視線が定まらない。

 

どきどきどきどき、胸が騒がしい。

 

 

 

 

「あの、で。」

 

 私は蛇口をきゅっと捻った。

気を少しでも紛らわせたくて。

 

「ん?」

 

 彼の首辺りを見て私は言う。

顔を合わせたらとてもじゃないけど平気でいられなくなりそうなんだ。

 

「答えまだ聞いてないんですけど、

コーヒー缶とかして下さったの、速水さんでいいんですよね?」

 

「……。」

 

てっきり「うん。」とすぐに返事が返ってくるものと思っていた私は

この変な間に違和感しかわいてこない。

 

あ、れ。

本当に返事がなかなか…、

 

 

「ファイル拾ったのは俺。以上。」

 

伏せていた頭をパっと私はあげた。

 

ここにきてまだ認めないの、速水さん…!

 

強情な彼に半ば呆れた私だが、

速水さんは速水さんで、もう質問は受け付けませんとばかりに口を固く締めている。

 

話す気がないと悟った私は観念して、

 

「じゃぁ勝手に思っておきます。

絶対あれは速水さんだから。」

 彼に向き直るのをやめ流し台に体を預けた。

 

何で、そこまで話したがらないんだよ…。

そんな恥ずかしいことでもないのにな。

 

不服気にちらりと盗み見て、

 

目線が合って、

 

一瞬何も考えれなくなって―――私はまた、眼をそらす。

 

ずるいなぁ、見つめてくるとか。

男の色香ってやつに惑わされちゃうよ。

 

 

 

 

「あの、で。」

 

 私は蛇口をきゅっと捻った。

気を少しでも紛らわせたくて。

 

「ん?」

 

 彼の首辺りを見て私は言う。

顔を合わせたらとてもじゃないけど平気でいられなくなりそうなんだ。

 

「答えまだ聞いてないんですけど、

コーヒー缶とかして下さったの、速水さんでいいんですよね?」

 

「……。」

 

てっきり「うん。」とすぐに返事が返ってくるものと思っていた私は

この変な間に違和感しかわいてこない。

 

あ、れ。

本当に返事がなかなか…、

 

 

「ファイル拾ったのは俺。以上。」

 

伏せていた頭をパっと私はあげた。

 

ここにきてまだ認めないの、速水さん…!

 

強情な彼に半ば呆れた私だが、

速水さんは速水さんで、もう質問は受け付けませんとばかりに口を固く締めている。

 

話す気がないと悟った私は観念して、

 

「じゃぁ勝手に思っておきます。

絶対あれは速水さんだから。」

 彼に向き直るのをやめ流し台に体を預けた。

 

何で、そこまで話したがらないんだよ…。

そんな恥ずかしいことでもないのにな。

 

不服気にちらりと盗み見て、

 

目線が合って、

 

一瞬何も考えれなくなって―――私はまた、眼をそらす。

 

ずるいなぁ、見つめてくるとか。

男の色香ってやつに惑わされちゃうよ。

 

「携帯。」

 変わらず速水さんはつづけた。

 

私はまだ心乱されてるよ、なんて冗談でも言えないから

 

「…何ですか?」

って平常心を装う。

 

「見たよ、昨日。」

 

軽い返事をしながら、

その話もあったなって考想をめぐらす。

 

「内川から俺の連絡先貰ったの?」

 

「はい。」

 

内川くんから無理やり…は失礼か、

 

内川くんのご厚意で連絡を貰って

えっと悩みながら送った短い文章、確か3,4文ほど。

 

送ってからも返事来ないってうずうずしてたけど、

こうして話せてる今はもう大した問題じゃないのかもだな。

 

結局彼に連絡を送った私の心内は、

ただ話したいってだけだったんだから。

 

それにしても何て送ったんだっけ、

確か―――あ…、

 

まずい。

 

 

「仕事立て込んでるとき、あんまりつつかない主義だから。」

  

「そういう理由でしたら、安心です。」

 ぴしゃりと言い切り、

 

「速水さん。」

私は次の話題を提示しようとした。

 

早くはやく―――でも遅い。

 

 

彼は私の言葉を無視して声を上乗せすると、

 

「飲み会、来てほしかったんだ。」

って

意地悪く、ほくそ笑んでる。

 

あーもう一足遅かった。

寝首を掻かれるってこのことだ。

 

「うるさいですよ、!」

 精一杯の抵抗、恥ずかしくて困ってることを何とか私は隠したい。

 

「へー、来てほしかったんだ。」

 そんな反応を楽しんで彼はくすりと口元を緩める。

 

「私、何も言ってないじゃないですか。」 

 

「そういう表情してる。」

 ハハハっと速水さんは笑った、お得意の見透かしを披露中らしい。

 

「さっきまでのおとなしい速水さんに戻ってくださいよ。」

 そっぽを向いてむくれる私。

 

「避けてたの嫌いじゃないなら何だっけ?」

 彼はわざとらしく首をかしげる。

 

 

止まぬ追及にかあーっと頬が上気した私は

 

「速水さん、こそ、避けてたじゃないですか!」

 答えるのを免れるようにムキになって尋ね返した。

 

「好かれてない人にしつこく関わっちゃだめだろ…。」

 

「まぁ、それはそうですけど。」

 

 冷静な彼の答えに空気がいったん落ち着く。

 

「それに、」

 彼がつづけた。

 

「それに?」

 

「……押してもだめならひいてみろ、みたいな。」

 

「はい?」

 

「あー、やっぱ何でもない。忘れて。」

 どぎまぎした口調で言った彼は、今度は内が見えるよう手を額に当てた。

 

そっぽ向いて全然私の方を見てこない。

 

「何なんですか?」

 その、押してもだめならひいてみろって。

 

聞いても答えてくれなかった。

それどころか目線すら合わせてくれない。

 

変な速水さん。

 

私は彼が言った言葉を頭打ちで繰り返した。

 

「ヒントないんですか?」

 

またも私の言葉だけが空を舞う。

 

おーい、と私は上半身を回り込ませて彼の顔いろを伺った。

と、彼は途端に体を少し他所にそむけたようと動く。

 

……もしかして。

 

私はもっと体を回り込ませた。

 

「速水さん。

 

照れてますか?」

 

じろり、

彼は手を顔からどかし、眉間にしわを少し寄せて露骨に嫌そうな眼

 

「うるせー。」

 するや否や私の頭をお得意の右手中指で小突く。

 

ジンときた鈍痛に彼を横目で見て無言の訴え、

速水さんは知らんぷりして視線をどこかに外してる。

 

だけどすぐに私は笑った。

 

彼の頬がほんのり朱がかっていたから。

 

「にやつくなよ。」

 後ろ髪をかきながら彼がぶつくされる。

 

「ごめんなさい。」

 でも私はまだ笑ってる。

 

「あー、もう。」

 

彼は心底嫌そうに、そして心底照れくさそうに、笑った。

 

 

 

 そんな笑いに一区切りがついたところで、壁にかかっている時計を何気なく確認すると

既に30分が経とうとしている頃だった。

 

「そろそろ戻りますか?」

 

冷静に考えてみればここは給湯室、誰が休憩しにきてもおかしくない。

 

最も、時間が時間だからその可能性は昼間よりも下がるわけで、

だからこそ誰にも邪魔されずに今まで二人で話せていたんだろうけれど。

 

「俺に話したいことないの?」

 

「私は結構すっきりしてます。」

 伝えたいことも聞きたかったことも十分消化できた、第一こうして彼の前でも素直に笑えているし。

 

が、一方の速水さんはまだ何か言いたげな様子。

 

「聞きますよ。」

微笑みながら首を傾げた。

 

すると彼は一泊置いて大きく息を「はぁっ」と吐く。

 

「速水さん、さっきもそうやってここ入る時ため息してましたよね。

ちょっとショックだったんですからね、私。」

 

2回目のそれを冗談交じりに指摘した。

指摘できるようになるほど、私は彼を心の距離近くに感じていたんだ。

 

「…市田のせいだろ。」

 

「なんで、私のせいなんですか?」

 

彼は一瞬ためらって、だけど気まずさそうに

 

「朝もここにきてたの、俺。」って。

 

「恥ずかしすぎる。」

彼がボソッとつぶやいた。

 

 

「朝?」

 どういうことですか、また私は首をかしげる。

 

「…午前の8時もあり得るじゃん。」

 後ろ髪を彼はせわしくかきながら

 

「お前、午前か午後かちゃんと書けよ。」

 いじらしそうに言った。

 

「……え。」

 

それって、

心配になって朝、つまり午前8時にも給湯室来てたって…ことだよね?

 

わーっ、それは何というか、、

 

照れくさい……

 

 

「感銘受けてんな。」

 浮かれてる私の頭を元に戻すように、ゴツンと彼は強めに小突いた。

 

「すみません。」

 思わず叩かれた頭を手で押さえてしまいながら、私はそろーっと彼を上目で見る。

 

嬉しくて。

 

 

すると彼はじろっと私に向き直って、

 

「仕事でしてたら誤解されて大変なことになるかもだぞ、気をつけろよ。」

 

そう上司らしく私に告げた。

 

途端に私はしゅんとなる。

叩かれたって、嬉しいって気持ちでしかなかったのに、

彼の言葉で一気に仕事でそんなことがあったらって、考えさせられちゃったから。

 

そうだよね、ついうっかりなんて仕事には通用しない。

万が一ってことがないようにしなくちゃいけないんだ、速水さんは的を得てる。

 

「市田。」

と、彼が私の名前を呼んだ。

 

「嘘だよ、照れ隠しで言っただけだから。」

 

顔をあげて目が合うと彼は照れくさそうに視線を下にさげて、

 

「だから落ち込むな…。」

優しく私に告げる。

 

 

「ちゃんと夜だとは思ってたけど、

朝行ってみていないの確認したらしたらで、変に焦ったから…。

 

本当に市田くんのかなって。」

 

「んで夜行ったら普通にいるし…、なんか気が抜けて。」

 

それだけ言って彼は手の甲で顔を隠しながらそっぽを向いた。

 

今彼が言ってくれたのはため息した理由らしかった。

照れながらの不器用な説明。

彼の仕草とか表情の火照り具合が彼の心内を物語ってる。

 

あー、本当いちいちこの人は……

どきんと胸がうずいた。

 

あの意地悪な速水さんが、

私のことで今こんなに照れてるよ。

 

+

 

 彼の頬の朱が私にも伝染して、二人の間に妙な時間があいた。

 

市田。

そんな時にふいに彼が私の名前を呼ぶ。

 

なんですか、って私はぶっきらぼうに聞き返す。

私もたいがい素直じゃない。

 

「……まだ、付き合う?っていうか、

交際…は早いんだよな?」

 

慎重に慎重に、な速水さんの言葉。

 

……ふいうちずるいや。

まだ照れはひいてないってのに。

私はそっぽを向く。

 

「お、おーい。」

 速水さんの少しだけ焦った口調が横から聞こえてきて、

 

ようやく私はうんって返事した。

 

追い打ちかけるみたく、

恥ずかしいことを続けて言ってきた彼へのちょっとした仕返しだ。

 

もしかしたらそう企んでたことがばれてしまうかも、

と私の頭の片隅によぎったが、今回は例外らしい。

 

「待つから。」

そう言って速水さんはいつもの意地悪い表情とは反対に、嬉しそうに微笑んでいたから。

 

だけどそれを見せてくれるのは一瞬だけ。

すぐに顔をふいっと他所にやる。

 

「…ずるい。」

 彼の表情が、絶賛頭の中を独占中だ。

当の本人は何もなかったという顔でつったってるってのに。

優しそうに笑った彼の表情にひどく惹かれてるんだ。

 

そんな風に彼のことを考えていたから

 

「市田、」

って私の名を呼ぶ声を私は聞き逃した。

 

「市田?」

 もう一回彼がよぶ。

 

「へ?あ、はい。」

 裏返った前半の声が恥ずかしい。

 

「照れてんの。」

 彼がくすっと笑いながら、腰を少しまげて私に目線を合わせてきた。

 

私の身長156センチ。

彼の身長178センチ。

 

20センチほどの距離が一気になくなって、今の身長差0センチ。

 

瞳がゆっくり閉じて開いて、

彼の右目じりほくろが、色っぽく私を捕らえる。

 

か、顔が近いよ!

手で顔をガードしたくなるのを抑えながら私は目線をせわしくどかす。

 

「恥ずかしい?」

 彼が意地悪く笑う。

 

「そんなこと…ないです。」

 なけなしの一滴を絞り出すかのように、私は弱く。

 

「本当?」

 いやらしくまた弱いところを突いてくる。

 

「……う、も、もう、恥ずかしいですよ。」

 たまらず私は離れてとばかりに彼の肩をトン、と押した。

ふらつきもせずに彼は背を屈めるのをやめてくれる。

 

「市田は、からかいがいがあるよね。」

 私が焦がれたあの表情とは別の容貌で、ハハハって破顔した彼、

 

「そろそろ戻るか。」

 お気楽そうに告げてくる。

 

 

…自分が照れてるときは嫌でもこっち見ないくせに。

内心むくれた私。

 

「ゆっくりでいいから。」

 ポンって彼は私の頭を撫でる…とはいかないけど手を優しく置いた彼に、

 

私は「亀のペースで行きます」って言った。

 

「え、それはどれくらいの…?」

後に続くはずだったペースという文字が消えてなくなる。

 

「とてつもなくゆっくりですよ!

slowじゃないですから、most slowlyですから!」

 興奮気味に答える私。

 

「はぁ?」

 彼がどういうことだよってつづける。

 

「いっぱい意地悪するからです!

もうからかう速水さんなんか嫌いだ!」

 ふてくされた私に

 

彼が焦った様子で「ごめんって。」って笑ながら謝ってくる。

 

「ばか。」

 だけど私は彼に何度もそう言う、

 

「ごめん。」

そのたびに彼がそう返す。

 

 

それが何回か続いて、

 

「…サンドイッチ2つですからね。」

 そう折れた私に、

 

彼は「分かった」って笑った。