悲し笑いの横顔


 

柊木 鷹弥

34歳

 

鴨井 茜

28歳



 

嫌だっていえばいいのに、

苦しいっていえばいいのに、

 

それでもアイツは笑って泣いてる。

 

 

大嫌いなキミが、私のこと好きになればいいのに。

というか、なって。

 

 

目次

プロローグ

第1章 大きな嘘

 コイツも最低

 

 


プロローグ

 

 

 その日の私たちも、いつもの如く一緒に夕食をとろうとしていた。

 

付き合って3年を迎えようかという私たちにデートいうデートは珍しくて、

いつからそうなったか分からないが、その代わりに日曜の夜は、どっちかの家で食事を共にする。

 

 

専ら最近は私の家―――

 

つけっぱなしのテレビと、

チャーハンを作っている私から見える彼の背中。

 

「茜。」

 

「なに?」

 カンカンカン…お玉とフライパンがこすれる。

 

 

「ごめん、別れよう。」

 

 

 パッと私は手元から彼の背に視線を移動させた。

盛ろうとしていたチャーハンが、フライパンからぽろぽろこぼれていることにも気づかずに。

 

「俺……浮気したんだ。」

 

「…え?」

 そこでようやく、声が出た。

 

「嘘だよね?冗談でしょ?」

 コルクが抜けたワインのように、しゅわーっと言葉が次々と飛び出してくる。

 

「だって、だって」

 私たち30も目の前だし、そろそろ結婚かなって―――…

 

 

「ごめん。」

 冷たく言い放った彼の言葉は

 

私の口を閉ざすのに十分だった。

 

 


第1章 大きな嘘 

 

 

 君が言った言葉の意味に、私は気づけていなかった。

 

 

 

コイツも最低

 

 

「お疲れさまでした。」  

 

「お疲れー。」

 返事し返してくれた職場の人に会釈を返して、私は会社を出て行く。

 

「さむっ。」 

 外に出たとたん、冷たい風が私を襲った。

 

思わず、巻いている桃色のマフラーに顔をうずめる。雪こそ降っていないが、12月後半―――寒気は厳しい。

髪とマフラーではかばいきれない両耳がツンと痛かった。

 

 そのまま歩を進めるにつれて、騒がしい大通りから少し静かな通りへと周りが変化していく。会社から駅まで約10分。

寒さから逃げるように、私は駅の階段を駆け足で上った。

帰宅ラッシュは終わったようで、あがったホームにはぽつぽつとまばらにしか人を確認できない。

 

そりゃそうか、もうすぐ21時だもんなぁ……。

はぁと私は空中に白い息を吐いた。

 

数分待って、来た電車に乗り込む。座席もちらほら空席が見られたが私は座らず、ドア近くの邪魔にならないところへ立っていた。

 

電車内では音楽を聴いている人、目をつむっている人、携帯を見ている人が大半の中、私はぼーっとそのまま窓から外を覗く。

一駅過ぎて、ようやく私は携帯を取り出した。

 

連絡0件。

 

金曜の帰りの電車――…いつもなら、彼から『日曜どうする?』って当たり前のように連絡が来ていた。

 

でももう終わり。

この間の日曜、私たちは終わったんだ。

 

浮気したと打ち明けられて、理由を聞くわけでもなく、怒るでもなく、わめくでもなく。

 

「じゃぁ。」

「うん。」

 それだけ。

 

3年も付き合ったってのに、終わりはやけにあっさりだ。

付き合うときは、しつこいぐらいにデートを重ねてってのにさ。

 

プシュー…私の背の後ろのドアがまた開く。冷たい風が私を襲う。

 

「ばかやろう。」

 駅長さんの笛の音とドアが閉まる音が騒がしいのをいいことに、私は心内でつぶやいた。

彼と別れたからといって特に泣いていなかった涙が、変なものでぽろりと目からこぼれ落ちる。

 

周りに気づかれない様、それが欠伸のせいだと思わせるように口に手を当てて涙を軽く拭った。

 

平気だったくせに。

彼と別れても、彼がいなくても、この一週間仕事頑張れてたくせに。

 

帰り道に涙がこぼれるなんて。

 

「っ。」

 大丈夫、別にあんたなんかいなくたって、私これから生きていける。

 

 

欠伸ではかばいきれない涙を、私はその場で顔を伏せ、寝たふりで誤魔化した。

 

 

 それから4度ほど扉の開閉音を聞き、私は目的の駅のホームへ降り立つ。

 

涙はもう止まっていた。

ヒールを鳴らし、背筋をしゃんとし私は駅を出て行く。

鼻の先が赤いってのに、しゃんしゃん歩いているんだからなんとも変な話だ。

 

そうしていたのが“無理”だと分かってしまうように、すっかり人通りが少ない道に入ってしまうと、歩くペースはがくんと落ちる。

 

あー帰りたくない。

 

そう思ってる心情と比例しているみたいだ。

 

明日も仕事だからと、この一週間特に寄り道をしていなかったが、明日は週末、家に帰る理由も別段ない。

 

 

 あと5分ほど歩けばアパート、というところでとうとう私は歩くのを止め、目に入った公園内へ入っていった。

 

当然こんな遅くに公園で遊んでいる人なんかいない―――赤い滑り台、二人分の青いブランコ、ベンチと砂場、典型的な遊具などがここには広がっている。

 

 

何年ぶりだろうと振り返りながら、比較的公園中央にあるブランコに私は座った。

 

軽く揺れてるだけってのに上下に動く度、ぎぃ、ぎぃ、不規則に鉄がすれる音がする。

 

…私が重いわけじゃないよね?

音が聞こえてくる、支持金具を思わず見上げる。

 

「ちょっと古そうだもんな。」

 私の体重のせいじゃない、私はまた自分に言い聞かせた。

 

地に足をつけたまま、また軽くブランコを上下させる。

 

夏だったらもっとこいだはずだけど、何分今は冬。頬に当たる風が冷たすぎてこれ以上漕ぐと寒さに耐えられなくなりそう。

 

 

「はぁ~あ。」

 誰もいないのをいいことに私は思いっきりため息ついた。

 

逃げるようにこうして公園に入ったってのに、それでも浮かんでくるのは彼の残像。

 

はじめて手をつないだ日、デートした日、キスした日、一つになった日。

だけど最後は絶対、あの日の背中が私の頭を占領する。

 

未練なんてない、あんな最低オトコ。浮気オトコ。馬鹿オトコ。裏切りオトコ。

 

「大っ嫌い。」

 思い出を振り払うようにまた呟いた。

 

 

 その時、ほのかに背後から良い匂いが漂ってくる。

 

この匂い……ビーフシチュー?

 

「何してんの?こんな真夜中。」

 同時にそう、誰かが私に言葉をかけてきた。

 

 

「へ?」

 思わず私は振り返る。それも小さいころよくしてたみたいに、頭から後ろへ。

だけど、すぐにそうしたことを後悔した。

 

30代ぐらいとみられる男の人の逆さま顔が、私を覗いていたからだ。

 

「げっ!!」

 あわてて体勢を取り直し、ブランコから飛び降りる。

 

彼と再び顔を合わせて、やっちゃったーと顔をしかめた。いうなれば、今の私の心情は彼氏にはじめてすっぴんを見せるときとおんなじ。

 

初対面で、さかさまの顔をいきなりみられるとか恥ずかしすぎる!

ただでさえ自信ない顔がもっと不細工に彼の眼には映ったはずだよ。

 

とはいえ、このまますたこら帰るわけにもいかないので、

 

「あ、あのー…」

 邪念を払い、おそるおそる私は声をかけた。

 

 

 改めて見ると、先ほどは気づかなかったが彼は白いコックコートを身にまとっていた。

 

街灯が少ないため、顔立ちははっきりとは分からないが、顎がしゅっととがっていて髪は若干パーマをあてているのかくるくると波打って見える。

 

30代、前半ってとこ…かな?んーでも、20代にも見えなくないような…

 

「ぷっ。」

 首をかしげていると、彼はいきなり噴き出した。

 

「ハハハっ」

 

「え?」

 続けて彼は笑い始める。

 

な、何がおかしんだろう…?

 

「ごめん、ごめん、いきなり笑って。

ツボ遅いってよく言われてるから自覚済みなんだけどさ。」

 

「は、はぁ…」

 

「まぁでも、今のは君が悪いよね。だってこんな遅く、ブランコ乗ってんだもん。

お化けかと勘違いしちゃった。」

 誰がお化けだ、生きてるわ。

 

「声かけたら頭ぐいんって後ろ向かせるし、あーおかし。」

 くすくすと彼はまた笑い始める。

 

「…ちょっと、笑いすぎじゃないですか。

人の顔のことで。」

 

「ごめんごめん。」

 そう言いながらも、変わらず彼はくしゃっと表情に無数のしわを浮かべて、また無邪気に破顔している。

 

謝る気あるの、この人。

じろっと私は見上げた。

 

 

「何してたの、こんな遅く。」

 

「私は……ただの仕事帰りです。」

 何て言おうか若干詰まりながらも、彼の問いに私は答えた。

 

「仕事帰りに公園?

なんか家に帰れない用事とか?まさか家出じゃないでしょ?」

 軽い雰囲気で彼は次々に言葉を紡いでくる。

 

この人軽いなぁ……ふつー初対面でそんなこと聞く?真昼間ならまだしも、夜遅くにブランコ乗ってる怪しい女だぞ、私。

 

それこそ、彼がお化けかと思ったみたいにさ。

 

「そっちこそ、なんでこんな遅くに公園…」

 

「あぁ、俺はそこのレストランに勤務してるから。」

 見える?と彼は公園の東側入り口の方を指さす。手前に生えている木々のわずかな隙間から、薄黄土色のそれらしき建物が覗けた。

 

「そうですか。」

 だからこの人からさっき、良い匂いが香ってきたんだ。

コックコート着ているワケにも頷ける。

 

「で、君は?」

 彼は今だレストランの方へ視線を向けていた私に、顔をぐいと動かし回り込んできた。

 

「ちょっ。」

 

「え?あぁ、ごめん。」

 距離がいきなり近づき、思わず後ずさってしまった私に、彼はくしゃっとまた笑う。

 

「俺こういうの平気なタイプだから。」

 

「何ですか、こういうのって。」

 

「パーソナルスペース狭いんだよね。」

 

「なるほど。」

 …私のパーソナルスペースはだだっぴろいんですけどね。

 

「あ」

 

「今度は何ですか。」

 彼は私の顔に指を指す。

 

「今、私のパーソナルは広いって思ったでしょ。」

 

「……。」

 

「図星。」

 くすっと彼は笑って見せた。

 

 

「で、さっきの答えは?俺は答えたけど。」

 

「……別に。ただ、家に帰りたくないなって。」

 

「ふーん。」

 そっちが聞いてきたくせに、興味なさげに彼はそう言う。

 

やっぱり答えるんじゃなかったよ、彼は教えてくれたから私も言わなきゃなって無理やり、公園いた理由告げたけどさ。

 

 

「立ち話もなんだし、座って話さない?」

 

「はい?」

 彼はあそこ、と東の入り口近くに設置されているベンチを指差した。

 

「いや、あの…私たち初対面ですよね?」

 そんな座ってまで、話し繰り広げる必要ある?

 

さっきも言ったけど、私夜遅くにブランコ乗るような女だよ?

 

「俺は君のこと知ってるから。」

 ほらとばかりに彼は顎をくいっと動かして、先にベンチへ向かった。

 

私のことを知ってる?

彼の言葉に引っかかった私はしぶしぶ彼についていく。

 

すとんと距離をちょっと開けて、隣に腰かけた。

 

 

 彼は少しレストランの方を気にして、私に顔を合わせてくる。

ブランコのそばにいるときより街灯が近いせいか、彼の顔を先ほどよりもくっきり捉えられた。

 

……悪い人ではなさそう、目元とか柔らかくて優しそうだし。

 

「お仕事戻らなくて大丈夫なんですか?」

 

「あぁ、休憩中だから。」

 

「そうですか。」

 静かな公園に、私の声が響いた。

 

 

「キミいくつ?」

 

「……28ですけど。」

 ベンチまで移動して、何話すかと思いきや歳ですか。

しかもふつー女の人に歳聞くかね?

 

「え!28!?」

 

「…そーですけど。」

 

「もう大台じゃん、アラサーじゃん!」

 ちょっと、この人失礼過ぎない?

 

悪い人じゃないって言ったけど、やっぱ撤回。ちょこっと悪い人、それでいてとっても失礼な人だよ。

 

「っていうか、そっちこそ何歳なんですか。私より絶対歳いってるでしょ。」

 

「あとちょっとで34だけど。」

 

「ほらー!人のこと言えなくないですか!」

 

「男は30から味が出るっていうじゃん。だから俺はセーフ。」

 …この人本当最低。

 

「まぁそんなからかいはここら辺にして。

 

君もうちょっと若いって思ってたからびっくりしただけだよ。

23、4に見えたからさ。」

 

「…はぁ。」

 冗談って言ってるけど本当かなこの人、どうにもアヤシイ。

 

「やー、びっくりしたなぁ。」

 それでいて、そこでやけにオヤジくさいセリフをこぼしたもんだからもっとアヤシイ。

 

もうすぐ34っての嘘じゃないでしょーね、私が23、4に見えたみたいに実は40です、とか変なところで嘘つくのやめてよ。

 

 

「名前は?」

 

「鴨井 茜ですけど…。」

 

「かわいー名前だね。」

 

「そーですか?」

 カモ、カモってからかわれることも少なくなくて、嫌だったんだけどな。

 

「カモちゃん。」

 

って、言った傍からこの人…!

本当私の嫌なところついてくる!

 

「カモちゃんはやめてください。」

 

「かわいーのに。」

 

「やめてください。」

 

「じゃぁ……アヒルちゃんね。」

 あひる?

 

「アヒル、カモ科だから。」

 くしゃっと彼は破顔する。

 

「……もう好きにしてください。」

 アヒルも嫌ですって言ったとしても、どうせまた違う動物の名で私のこと呼んでくるんだろうし。

半ば呆れて、私は彼から視線を外した。

 

しかし何だって私、知らない人と喋ってんだろうな。

本当大丈夫かな。

 

「俺、柊木っていうから。」

 

「下の名前は?」

 

「鷹弥。」

 

「ふーん…。」

 私と違ってかっこいい名前しやがって、苗字も名前もさ。

 

 

 

 


主人公が元彼に浮気が原因で振られることから始める。

 

「俺、浮気した。だから別れよう。」

→次の日会社から帰り、家にいるのが何となく嫌で(思い出物が部屋にちらほらあるから)

道にある公園のブランコで時間をつぶしているときに、男の人が現れる(近くのレストランのコック)

 

主人公 28歳 鴨居 茜

男主人公 33歳 柊木 鷹成 タカナリ

 

卯佐美 実子 ミコ

塔屋 駿介(馬)

 

柊木 鷲一(しゅういち)

 

 

 

プロローグ

アラサーじゃん、あんたもでしょ?男は30からの方が味出るって聞いたことないの?あ、ちなみに女のピークは27らしいよ。こいつ最低。

 

「で、あんた何かあったわけ?」

「…別に。」

「男に振られたとか?」

「……」

「え、まさか図星?」

「…そうよ、何か悪い?」

「原因は?」「…」「まさか浮気?」

「…あなた占い師かなんか?」

「違うけど。」

「じゃぁ何で分かったの?

「んー…浮気の経験あるから?」

 

「は、はぁ!?」

 何、この人浮気したことあるわけ?ひっど、やっぱこいつ最低。

 

「浮気された人がどんなにつらいかあんたみたいなの知らないんでしょうね。」

 初対面だし、年上だけど、浮気する最低やろーなら、あんた呼ばわりで十分だっつーの。

 

「分かるよ。」

「え?」

「分かるよ、君の気持ち。」

 ざーっとそこで風が吹く。

 

「なによ…それ。」

 分かるならなんで浮気なんかするんだよ。

 

「だからちゃんと忘れなよ、その彼氏のこと。」

 先ほどまでとは打って変わって、真剣な目つきで私を見つめてくる。

 

「じゃぁね。」

 また元の口調に戻って彼はその場を去っていった。

 

 

 友達に相談。

 

その次の日の夜、スーパーで買い物中(公園近くの)

そこで、あの男の人が女の人と一緒にいるところを見かける。

 

「…げ、あの男だ。」

 何の偶然だよ、最悪。

 

っていうか、彼女いたわけ?アイツ。

 

(女の人の描写。)

 

まさか、浮気の経験あるって言ってたけど、現在進行形じゃないでしょうね……

そうだったら、最低。あんな綺麗な人がいるってのに。

 

でも、それにしたって。

 

……楽しそうに笑ってるなぁ、あのひと。

くったくのない笑顔で、隣にいる彼女に微笑みかけている。

 

……って、浮気やろーだっつーの、さっさと帰ろ。

 

その後会話。

 

 

男の人の彼女が浮気している(二股)

男の人は一途。

 

「だってあんた。」

 

保管庫【私を変えた人。】

 

ルルルルル――――――。

せわしなく、電話が会社に鳴り響く。

 

「はい、こちら沢谷株式会社です。

 はい。はい。

 承知いたしました。すぐお伺いいたします!」

 

「村本先輩、山田さんがこの間のことで

 お話をうかがいたいと申されていて、今から向かっていただけますか?」

 

「おっけ、えっとじゃぁ。

 山岸、これコピー頼んでもいいかな?」

 

「あ、はい!分かりました!」

 

「ごめん!

 机に置いといて。」

 

 こんな風に働いて、

 

「山岸さん、今日もお疲れ様でした!

 またご指導お願いします!」

 

後輩のこんな言葉を毎日の終わりに聞いて、

 

 

「かんぱーい!」

 

「くー!!」

 

たまには会社の人と飲みに行って、

私の毎日はそうして終わりを遂げる。

 

でも、そんな終わりの前に私は大切な人と会う。

 

「ちな。」

 

「旬。もう風邪ひいちゃうから、

 出てこなくていいのに。」

 

階段が少しぎしぎしいうようなアパートの前で、

私の帰りを待ってくれている大切な人。

 

 

「ちなが会社の人と飲みに行って、帰ってくるのは

 大体11時だもん。

 俺分かっちゃうんだ~。」

 

「ありがとう。中、入ろう。

 ご飯、ちゃんと食べた?」

 

「うん。」

 

 彼、沢村旬は、私の2つ年下の彼氏。

私が大学3年生の時に、彼が大学1年生で、

 

地域のゴミ拾いのボランティア活動で知り合った。

 

私は法学部で彼は、美大で、

大学は違ったけど、すぐに同棲をはじめて、今交際2年目。

 

あと少しで3年目を迎える。

 

綺麗な黄土色の髪の毛で、くるっくるの栗毛。

いつもふわっふわなそれが、私はたまらなく好き。

 

「お風呂は入った?」

 

「うん。」

 

「明日、いつもより早いんでしょ。

 遅刻しちゃうから、ほらもう寝なよ~?」

 

「はーい。

 ちな、おやすみ。」

 彼はそんなおやすみの挨拶に、いつも私の唇にそれを落とす。

そして、5分もたたないうちに寝てしまうんだ。

 

ふぅーと一息ついて、

11時15分。

彼のお弁当の準備を始める。

 

(朝、おにぎり握って、サラダ入れて、うし、完璧!)

 

11時30分には、それが終わる。

明日は、おやすみだから、どこへ行こう。

 

給料日前だけど、

先月は服買ってないし、

余裕があるから、買い物に行こうかな。

 

それとも、本屋に行って、

読みたかった本を立ち読みするのもいいかもしれない。

 

そんな風に考えながら、お風呂に浸かって、

12時30分には出て、

そこから30分は、私だけの時間。

ためていた録画を少し見て、むくんでいる足をマッサージして、

 

「できる女はつらいわ~

 なんちゃって。」

 

 たまには独り言もいったりしながら、

 

1時になったら、私は彼の横で寝る。

これで終了、私の一日。

 

また明日はやってくるけど、

きっとこれからの人生、こんな毎日の繰り返し…のはずだったのに。

 

 

 

「山岸、課長が呼んでる。」

 

「あ、はい。」

 ボールペンを置いて、課長のもとへと進む。

 

「課長、およびですか。」

 

「あぁ、山岸くん。」

 課長は、かけていたまるぶちメガネを机に置くと、

書類を私に渡してきた。

 

(また仕事が一つ増えた。。)なんて考えながら、

 

「頑張ります…。」

 と答えながら受け取ると、課長はにっこりほほ笑んだ。

 

「よく見てみなさい。

 いつもの仕事じゃない。

 君のしたかったプロジェクトだよ。」

 

「え!

 私にさせていただけるんですか!」

 あわてて書類をめくると、

確かにそこには私のしたかったプロジェクト名が書かれていた。

 

「村本くんが、山田さんに君の名を進めてくれたんだ。

 頑張ってくれよ。」

 

「はい!頑張ります!」

 私は、書類を頭上に突き上げ、村本先輩のもとへとすぐに向かった。

 

「いうな、お前の気持ちは分かる……。

 だからがんばれ。」

 彼は私の腕を一発叩くと、

それだけ言って、外に営業へ出ていった。

 

(村本先輩ありがとうございます!!)

私はそう思いながら、先輩の後姿へ深く頭をさげた。

 

 

*

 

 

「だから、ごめんね。

 これから帰るの遅くなりがちになると思うの。

 ご飯は作っておくから、ほんとごめんね。」

 

「いいよ、ちなのしたかった仕事なんでしょ。

 頑張りなよ。」

 彼はにっこり笑って、私の頭をなでた。

 

「俺も文化祭に向けて、仕上げなきゃだし、

 頑張るよ。」

 彼のやる気になっている顔を見ながら、私は微笑むと

彼はちょっと照れながら、いつものように口づけをしてくれた。

 

 

 それからの毎日は大忙しだった。

 

6時に起きて、顔を洗って、寝癖を直して、

そして、

お弁当もいつものように作って。

 

いつもより1時間早く、7時出勤。

 

 

そこからいつもの仕事を終わらせて、

任されたあの仕事に取り掛かる。

 

「もうこんな時間!」

 あわてて12時に帰宅。

帰ってすぐに旬の寝顔を見て、ほっと一息。

 

そのあとは、お風呂に入って、すぐ就寝。

自分の時間どころか、旬と話す時間すらないけど、

こんな忙しい生活もあと3週間……!

 

絶対、成功させてみせる!!

なんて寝る前は考えて、明日への英気を養わさせてた。

 

 

ピピピピーそう目覚ましが鳴る前に、

それを止めて、

私の毎日は始まる。

 

よし、5時59分。

今日もがんばろう。

 

 

「山岸ー!

 例の仕事、進んでるか?」

 

「村本先輩!

 はい、なんとか頑張れている…と。」

 

 あはははっと私は、村本先輩に笑い返す。

 

 いや、頑張ってるけど、

うん、確実にやばい!

いつもの仕事すらもこなせてない状況になってきてる…!

 

 机の上に散らばったたくさんの書類をとりあえず積み重ねて…

えっと、これは明日までで、

これはえっと、え、今日のお昼まで!?

 

今は、ってもう10時じゃん!

 

終わった。

もう終わった。

 

机にばたんと倒れて、目をつむる。

 

いっそのことこのまま死にたいかも…。

 

 

「こら。」

 そんな声と共に、頭をこつんと叩かれた。

 

「あんまり一人で抱え込むなって。

 俺、余裕あるから、お前の今日の仕事よこしな。

 やってやるから。」

 

「む、村本先輩……!」

 

 私は、今日までの書類をかき集めると、

彼にすぐに渡した。

 

「うわ、結構あるな…。」

 

「はい、すいません……。」

 

 任された大事な仕事も着々と迫ってるのに、

いつもの仕事もこなせないなんて、だめだ私……。

 

「ほらほら落ちるなよ。

 こういう仕事は、俺に全部任せろ。

 その代り、ひと段落したら、また飲みにいこうな。」

 

 村本先輩は、仕事を手伝ってくれるだけじゃなくて、

気配りもできて…。

その上、自分の仕事もパーフェクト。

私だけじゃなくて、ほかの部署からも人気が高い先輩は、

2日に一人は誰かを惚らせているんじゃないかって思うぐらい、優しい。

だからかな、私のなりたい人第1位な先輩である。

 

 

「その時は奢らせていただきます!

 よろしくお願いします!」

 椅子から立ち上がって、頭を深く下げる。

 

「おーおー。

 …あ、山岸明日仕事休めよ。」

 ふと思い出したかのような口調の先輩。 

 

「え?

 いや、でも仕事が。」

 

「お前、最近休日にも会社来てるらしいじゃねーか。

 ばかだな。

 家で仕事してもいいから、

 とりあえず肩書きだけでも、休め。

 ぶっ倒れちまったら、元も子もねえだろ。」

 

 そういうと、村本先輩はポケットを何やらごそごそと探って、

「ん。」っというぶっきらぼうな声と共に、

私の机にいちご味の飴を置いて自身の机へと戻った。

 

 

村本先輩、本当にありがとうございます!!

 

よし、明日はお休みをいただいたことだし、

旬と話したいことも溜まってるし、明日の分まで、頑張ろう!!

 

 

カタカタカタカタ、パソコンの音が鳴り響く。

 

 

 

 

 アパートの階段を昇るたびに、

ぎしぎしなる音をもう何度聞いたことだろう。

 

もうここにきて、何年だっけ…。

いつ落ちてもおかしくないなあ。

 

ドアを開け、ヒールを脱ぐ。

時計の針は、今10時30分。

明日の仕事ちょっとまだ残ってるけど、

持って帰ってきてるし、はぁ~久々のゆっくりした時間!

 

いつもはしないけど、

ええーい今日ぐらい、ヒール履き散らしちゃえ!

 

「ただいま~!」

 いつもと違って、大きな声をだせるのも嬉しい。

 

「旬~?いないの?」

 

 帰る途中に寄ったスーパーで買いすぎたものを、

机の上に置くと、そこには一つの置手紙があった。

 

 

【お仕事お疲れ様^^

 今日は、作品を仕上げたいから、

 大学に泊まるね。

 

 寂しいと思うけど、泣くなよ~♪

 

 お昼には戻るね。   旬】

 

 

「旬、今日いないのか…。」

 

 しょうがない、

今日は一人パーティーだ!

 

その日の夜は、

一人でお酒を飲んで、そのまま眠ってしまった。

 

「ちな、ちな。」

 

「ん。旬?」

 

「うん。」

 

 ぼーっとする眼をこすって、旬の方を見ようとするけど、

なかなか目がはっきりしない。

 

「今、昼の12時だよ。

 お風呂も入らずに寝ちゃったの?」

 

 やっと目が慣れてくると、

昨日空っぽにしたお酒が机の上になかった。

 

「旬、片しといてくれたの?」

 

「うん。

 お仕事大変だったんでしょ?」

 

 あ、久々の旬の手だ。

そう思いながら、彼の頭をなでる手にしばらく甘えた。

 

「あ、やべ、30分だ。」

 

「どっか行くの?」

 ふぁ~と大きな欠伸をこぼし、水を飲みに台所へ行く。

 

「昨日、結局仕上がらなかったからさ、

 今からまた大学。

 夜、また泊まるかも。ごめんね~。」

 

 そういって私の背中に抱き付いてきた旬。

 

こういうところ、やっぱ可愛くて好きだなぁ。

なんて思いながら、

彼の腕にしばらく体をゆだねた。

 

「じゃ、行ってくるねん。」

 

 そして、いつものように頬に落としていった。

 

 

「ちな、ちな。」

 

「ん。旬?」

 

「うん。」

 

 ぼーっとする眼をこすって、旬の方を見ようとするけど、

なかなか目がはっきりしない。

 

「今、昼の12時だよ。

 お風呂も入らずに寝ちゃったの?」

 

 やっと目が慣れてくると、

昨日空っぽにしたお酒が机の上になかった。

 

「旬、片しといてくれたの?」

 

「うん。

 お仕事大変だったんでしょ?」

 

 あ、久々の旬の手だ。

そう思いながら、彼の頭をなでる手にしばらく甘えた。

 

「あ、やべ、30分だ。」

 

「どっか行くの?」

 ふぁ~と大きな欠伸をこぼし、水を飲みに台所へ行く。

 

「昨日、結局仕上がらなかったからさ、

 今からまた大学。

 夜、また泊まるかも。ごめんね~。」

 

 そういって私の背中に抱き付いてきた旬。

 

こういうところ、やっぱ可愛くて好きだなぁ。

なんて思いながら、

彼の腕にしばらく体をゆだねた。

 

「じゃ、行ってくるねん。」

 

 そして、いつものように頬に落としていった。

 

「おはようございます!

 昨日は、お休みありがとうございました!」

 

会社についてすぐにそんな風に挨拶をすると、

会社の人たちは皆、優しそうに

「がんばれよ~」なんて返事してくれた。

 

こういう時、

本当にこの会社に来てよかったなって思える。

 

やりがいもあるし、よし。

今日はこれを終わらせる!

 

 

ちっちっ、時計の針の音が少し気になり始めたころ、

 

「ちな、お昼一緒に食べよ!」

 

「え?あけみ!」

 

 ほかの部署だけど、一番仲の良い同じ歳の娘。

同じときに就職して、

それからすっかり親友と呼ばれる仲にまでなってしまった。

 

ブロンドの胸ぐらいまで伸ばした髪を揺らして、

彼女はいつもお弁当が入った袋を、両手で抱える。

 

そんな仕草が、いかにも女の子で、

彼女が男の人に人気な証だろうと常に思う。

 

「もう、そんな時間?

 あー、もう13時……。」

 

 予想よりも早く進んでいる時計の針に、

げんなりしつつ、伸びをして一息つくと、お弁当を広げた。

 

あけみは、隣の席の安近さんの席に座る。

 

安近さんは、45歳の女社員さんなんだけど、

お昼はいつも会社の食堂でお食べになられるから、

席をあけみに貸していただいてる。

 

既婚者で、娘さんが2人いらっしゃるし、

出産の話はいつ聞いても、耳が痛くなる!

それでも、あっはっはと笑う豪快な感じが、

いかにも頼りになるおばちゃんぽくて、大好きな先輩さん。

 

「ちな、最近お昼一緒に食べてくれないんだもーん。

 寂しくてたまらず来ちゃったよ。」

 

 あけみはそんなことをいいながら、冗談ぽくいった。

 

「最近、仕事忙しくて、

 仕事しながら、お弁当食べちゃうんだよね…。

 ごめんねー!」

 

「わかってるよ。」

 

 あけみはにっこり笑って、彼女特製の卵焼きを口に入れた。

 

「よくそんなに仕事できるよねー、

 私はぱぱぱっと終わらせちゃうからさぁ。」

 

 あけみは仕事よりもプライベート優先。

プライベートのために仕事をしているタイプだ。

 

「てかそんなに仕事忙しくて、彼氏大丈夫?

 ちゃんと相手してあげてるの?」

 

「……うん。

 向こうも、今大学の作品で忙しいからさ。」

 

「そっか。

 なら大丈夫かもね!

 でも、ちゃんと相手してあげなよ?

 

 男の人は女性が仕事するの、

 心ではあんまりよく思ってない時もあるからね!」

 

「はーい!」

 

 と返事しながら、

いつも私の仕事を応援してくれている

旬に限ってそんなことはないと思っている私がいた。

 

 

 休みをもらってから、

前よりも早く帰れるようになっていた。

疲れがとれたおかげなのかもしれない。

 

あと1週間。

順調にいきそう!

今日は9時に帰宅しちゃったし、旬と話したいけど、

今日も大学なのかな……。

 

 

相変わらず、最近旬は大学に泊まりがちで、

私よりも逆に遅くに帰って来るようになった。

 

彼を待とうと私もがんばるのだけれど、

 

テレビをつけっぱなしで寝てしまったり、

仕事の書類によだれをつけてしまったり、

 

逆に彼に私を布団まで運ばせてしまって、仕事を増やさせてしまう一方だった。

 

 

でも、さすがに寂しいよ、旬……。

 

 ガチャ。

 

「ただいまー。」

 

……。

 

今日も旬は大学か。

 

「おかえりー!」

 

「え?」

 

 真っ暗な部屋の中で、確かに旬の声がした。

リビングに入って電気をつけると、

真っ暗な部屋の中でテレビをつけて、寝転がっている旬がそこにいた。

 

「どうしたの?

 電気もつけずに?」

 

「最近、ちなが夜電気つけっぱなしにして寝てるから、

 嫌味をしてみようと思って♪」

 

「うっ……。」

 

「うそうそ。お帰り。」

 

 旬はそういって、私に近づき、私を深く包み込んだ。

 

久しぶりの旬のにおい。

あーいいにおい。

 

旬の……。

 

「って、旬、なんか最近においかわったよね?

 ラベンダーのにおいがたまにする。

 香水かえたの?」

 

 旬の体にうずめたまま、そう聞くと

 

「友達の香水かなぁ、すっごくきついんだよね。

 俺、ちなのにおいが一番安心する。」

 

「……旬。」

 

 彼がもっと近づいてくる。

 

あ、キスするんだ……。

 

目をつぶる私。

 

 

時計の音が部屋にこだまする。

 

 

たららたらたた~♪

 

「あ、携帯だ。」

 

 旬は、私から離れると、電話にでた。

 

ふぁー!

なんか緊張しちゃった!

 

顔絶対ほてってるよ、私!

 

 

旬は、相変わらずのマイペースで照れた様子もなく、

電話の相手の友達と盛り上がっているよう。

 

「今日のご飯は、ハンバーグですよーっと!」

 

 なんだかな~と思いながらも、

そんな旬が私は大好き。

 

夕食の支度を初めて、10分。

旬の電話が終わったかと思うと、

 

「ごめん、今日も大学だから、

 一緒にご飯食べれないんだ。ごめんね。

 いってくるね。」

 

 そう彼は告げて、急ぎ足で玄関へと向かう。

 

水道の水をきゅっと止めて、お見送りに玄関へ。

 

「いってらっしゃい。」

 そう私が言う前に、彼は私を一度も見ずに、出ていった。 

 

私は、台所へすぐに戻った。

 

 

 

 その日から、

私はなぜか旬を避けるようになってしまった。

 

お互い、携帯をぴーぽんとならすだけ。

 

「冷蔵庫にご飯入れてるね。

 大学頑張ってね!」

 

「ありがとね!

 頑張ってきま~す♪

 

 ひと段落ついたら、どっかいこうね。」

 

 そんなやり取りをして。

携帯を毎日閉じる。

 

「以上で、私の提案とします。

 何か、ご質問がある方いらっしゃいますか?」

 

……。

 

「山岸、よくやったな!

 お前に任せてよかったよ、ほんとに!」

 

「村本さん…。

 こちらこそ、私なんかを推薦していただいて…。」

 

「ばか、お前の力だよ。

 今日、飲みにいこうぜ。おごるからさ。」

 

 村本さんは、にこっと笑って会議室から出ていった。

 

 

プロジェクトは成功。

課長からも、村本さんからも褒められたのに、なんでかな。

 

「嬉しくない…。」

 

「山岸、こっちこっち!」

 

 村本先輩と飲むときは、いつもきまって、

居酒屋「のまる」にくる。

少し狭い古いお店だけど、私達の会社の人もよく飲みに来る、

御用達の店だった。

 

村本先輩は、いつもきまって、

カウンター席の隅っこの方に座っている。

 

なぜかそこが一番落ち着くのだそうだ。

 

店主のおじいちゃんも、

村本先輩がよく来る時間帯には、

そこをなるべくあかせるように工夫してくださっているらしい。

 

「村本先輩!

 すいません、ちょっと机の上を整理してたら、

 遅くなっちゃいまして!」

 

「あー大丈夫。

 今、ちょっとしたもん頼んだばっかだから。

 飲み物早く注文しな。」

 

 村本先輩は、そういって、ビールを一口含んだ。

「ぷはぁー!

 やっぱ仕事終わりのビールは最高だな。!」

 

「えっと、じゃぁ、

 私もビールお願いします。」

 

「はいよ!」

 目じりにしわをつくって笑う店主のおじいちゃんは、

やっぱり可愛い。

 

すぐに来たビールは、泡がいいかげんですっごくおいしそう。

 

「ありがとうございます。」

 

 そして、すぐにそれを一口いただく。

 

「あーおいしい!」

 

 横からの視線に気づいて、私は村本先輩の方をちらりとのぞく。

「な、な、なんですか?」

 

「いや、お前って、かわいいやつだよな。」

 

「っ。

 ……な、な、何言ってんですか!

 酔ってますね!?さては!!」

 

 私は慌ててビールをごくごくっと流しこむ。

 

「いや、いちいちお礼いうとことかさ、

 なかなかできるもんじゃないじゃん。

 

 そういう娘、お前しか俺は知らないから、

 いいなぁ~って思って。

 

 ほんとよく頑張ったな。」

 

 村本先輩は優しい口調でそういった。

 

村本先輩って、昔からこういうとこあるんだよなぁ~っ!!

会社でひそかに人気なのも、もうわかっちゃう。。

 

でも、きっと村本先輩にとっては、

特別な意味のないことなんだろうなぁ。

 

こんな年上の人と付き合うってどういうのなんだろう……。

 

村本先輩、なんだかいつもと違って……

 

「ん?」

 

「な、なんでもないです!!」

 

 途端に振り返ってきた先輩にびっくりして、

私はまたビールをごくごくっと流し込む。

 

「何考えてんだ!私は!

 ほんとばか!ばか!」

 

ぴぽーん♪

 

「あ、お前じゃない?」

 

 村本先輩は、私の鞄を指さした。

 

たぶん、旬…かな、うんだよね。

 

「仕事じゃないんで、大丈夫です。

 飲みましょ、飲みましょ!」

 

「お、おう?」

 

 それから終電ぎりぎりまで私たちは飲み続けた。

 

 

*

 

「気を付けて帰れよー!

 電車乗り遅れなよー!」

 

 村本先輩は一駅分のところに家があるため、電車を利用はしない。

いつも彼と飲むときは、この分かれ道でばいばいするのだ。

 

「はい、今日はありがとうございましたー!」

 

 先輩が歩いていく背中を少し眺めて、私も電車の方へ歩く。

少し、つたない足取りの私。

 

「お酒、弱くなったかなぁ……。。

 それにしてもこの辺、暗いなぁ……。」

 

 カツカツカツ。

 

そんな風に思った矢先、音が私に近づいてくる。

え、なに!?

ちかん!?

必死に足を急がせるけれど、

酔いのせいか、なかなか動かない私の足。

 

そして、誰かが私の肩をつかんだ。

「ひゃ、ひゃぁ!」

 私の声が暗闇の中響く。

 

「俺だよ、山岸。

 村本。」

 

「あ、あ、村本先輩!?

 ……も、もうびっくりしたじゃないですか!

 もう、ばか!」

 

 私は、右腕を先輩に振り上げる。

彼はすかさずそれを受け止めて、

 

「わるい、わるい!

 驚かすつもりはなかったんだ。

 お前のことが心配になってさ、やっぱ送るよ。

 ほらいくぞ。」

 

「先輩のばか。

 先輩はばかです、ばかー。」

 

 あれ、なんか頭がぼーっとする。

 

「や、山岸?

 大丈夫か?

 もしかして、酔いまわってきた?」

 

「せ、先輩……。」

 

 私の意識はそこで途絶えた。

 

 

 ぱち。

 

目を開けると飛び込んできたのは、

私の部屋の天井。

 

ベッドの近くの時計で時間を確認する。

時計の針は9時。

 

「んーっ」

 私はぐらんぐわんな頭に顔をしかめながら、

隣にいた旬にだきついた。

 

「旬、今日は大学ないのー?」

 

「んー。」

 

 旬の寝顔を見ようと目を開けた。

 

「いってー!!!」

 

「な、な、なんで山本先輩が!!!!?????」

 

私が先輩を思いっきしベッドから叩き落としたのは、言うまでもない。

 

 

*

 

 

「えっと、じゃぁ私を送ろうと先輩が追いかけてきてくれて、

 そのまま私は寝てしまったと。

 そして、先輩はおぶって電車にまで乗り、

 私の家に送ろうとしたのはいいけど、

 私は先輩を離さなくて、

 そのまま寝てしまった……。」

 

「そういうこと。」

 先輩はうんうんうなづきながら、打った頭を手でおさえている。

 

「…ほんとですか?」

 

「ほんとだってば!」

 

 私は保冷剤をタオルにくるんで、先輩にそれを渡す。

 

「彼氏と同棲してるって聞いてたから、

 彼氏に任せようと思ったんだけど、机の上のそれ。」

 

 明日の昼まで帰らない。

ごめんね。   旬

 

「ほんと悪いと思ってる……。

 でもほんと何もしてないから!」

 

「先輩、もう気にしてませんよ。

 私の方こそすいませんでした……。

 気づかないうちに私お酒進んでたみたいですね…。」

 

 私は旬からのメモをゴミ箱に投げ入れる。

入らなかったそれを拾い、カーテンを開けた。

 

あ、雨……。

 

「彼氏とうまくいってんのか?」

 

「……い、いってますよ?

 最近はお互い時間が合わないっていうか、なんていうか。」

 

「ほんとか?」

 

 村本先輩は席をたち、私のいるほうへ近づいてくる。

 

「な、なんですか!

 ちょっと、先輩!」

 

「じゃぁなんで今、泣いてるんだ。」

 

 先輩は私の頭をくいっと上げた。

 

「うっうっ。

 な、泣いてなんかないです……。」

 

 無理やり下げようと頭を動かすけど、動かない。

 

「うそ、泣いてる。」

 

「な、泣いてなんかーっ。

 きゃっ。」

 先輩は私の体をぐいっと抱き寄せた。

 

「せっ先輩…!」

 

「ばかだなぁ、泣きたい時は泣けばいんだ。

 無理すんな。

 ほら、な。」

 

「うっ、うっ、うぅ、先輩……。」

 

 旬、私いま先輩の腕の中にいるよ。

なんで、あなたの腕の中じゃないのかな…。

 

ねぇ旬。

なんで何も言ってくれないの…?

 

【沢村旬ver.】

 

 

 

 相変わらず暑いなあ。

ちな大丈夫かな、お仕事。

今日のご飯なんだろう。

 

そんな風に俺たちはうまくいっていた。

 

 

つい数週間前までは。

 

 

「旬、緑とって、緑!」

 

「ほんと、君は俺の事こきつかうよね、祭。」

 パシッと祭の方へ絵具を投げる。

 

「いいじゃん、いいじゃん。

 俺のことすきだろ?」

 

「おえー!!」

 

 そもそもの原因は、きっとこいつのせい。

 

といいたいけど、

それは違うな。うん、俺が未熟なせい。

 

 

「なぁ、旬。

 今日ちょっと付き合ってほしいとこあんだよね。

 おっけー?」

 

ちなは最近忙しいし、まぁいっか。

 

「うん、いいよ。」

 

「じゃぁ、講義終了後、14時に時計台の前に集合な!」

 

 

そして、14時30分。

 

 

「……祭。」

 

「な、なんだい、旬ちゃん?」

 

「合コンなんて聞いてないんだけどなぁ?」

 

「ごめん、旬ちゃん!

 人数たりなくてさ!

 こいつら、望と守。頼む、今日だけ!」

 

 手を合わせて必死にねだってくる祭。

彼女いない歴3年。

最近、彼女、彼女言わないと思ったら、

合コンあるから余裕かましてたのかよ、こいつーー!!

 

「今日だけだぞ。

 ほんと!」

 

「旬ちゃん、ありがとう!!」

 

 他の大学の望と守ともすぐに仲良くなって、

女子たちが到着するのを待った。

 

合コンに参加する女子って絶対、俺いやだわ。

ちなに早く会いたい~!!!

 

「ごめん、待たせちゃった!!」

 

 そうして、俺は出会ってしまった。

条林希和に。

 

 

 

*

 

「ねぇねぇ、旬てさ。

 彼女いるでしょ。」

 

「は、はぁ。」

 

希和はそういって俺に近づいてきた。

「年上?」

 

「まぁ、そうです。」

 

「ふーん、じゃぁ私と一緒ね。

 私28歳。

 彼女より年上の自信あるけど、どう?」

 

「ふっ。

 なんですか、その自信。

 確かに、ちなは希和さんより年上だけど。」

 

「あ、笑った。

 そんな笑い方するんだ、旬って。」

 

 にこっと微笑んだ大人な彼女の顔を見た瞬間、

あ、やべえ、って思った自分がどこかにいた。

 

「じゃぁ、お開きー!

 俺は沙耶ちゃんと帰るから、お前らばいばい♪」

 祭はそういうだけ言って、女の子の一人と消えていった。

残りの望と守も、

あと二人の女子と一緒に2次会をするのだそうだ。

 

「旬は、もう帰っちゃう?」

 

「ああ、はい。帰ります。」

 

「えー。。」

 彼女は不満げに口をとがらせる。

 

「じゃぁ、ここで。」

 俺は振り返って、携帯を取り出し、

ちなからのメールを確認しようとした。

 

「えい!」

 

「あっ!

 俺の携帯!」

 

「これがほしかったら、取り返してみーなさい!」

 ふいをついて盗られた俺の携帯。

 

「ちょ、希和さん…!」

 

「2軒目、行こうよ。

 そしたら、これ返してあげる!」

 希和さんは、そういってまたあの微笑みをした。

 

 

 結局、希和さんがよくいくという、

おしゃれなバー…

 

「って焼き鳥屋!?」

 

「そうよ、

 ん?焼き鳥もしかして嫌い!?」

 

「いや、好きっすけど。

 焼き鳥って。」

 

 俺はこらえきれず失笑した。

 

「なによー!」

 そんな風に口を膨らませる希和さんは、

とても28歳には思えなくて、可愛いなぁ、なんて思った。

 

「じゃぁ、乾杯。」

「乾杯。」

 

 俺の事誘ってくるのかなーっと思いきや、

彼女が話すのは、仕事場の愚痴や、

スーパーの話。

そして、大好きな焼き鳥の話だった。

 

ころころ変わる彼女の表情。

 

「希和さんって、ほんと28歳ですか?」

 

 俺はたまらずそう聞いてしまった。

 

「何よ、ばかにしてんのー?」

 そんな風にいじける彼女を俺はもっと見たいと思った。

 

「すいません、ちょっとトイレ。」

 

「いってらっしゃい。」

 彼女はにこっと笑って、

また大好きな“かわ”を3個ほど口に入れた。

 

「ハムスターみたいっすよ。」

 俺が笑うと、彼女は得意そうに笑った。

 

用を足した後、俺は希和さんのところへ戻ろうとした。

そして、見てしまったんだ。

 

思いげな彼女の顔に。

しかし、俺に気が付くと、ぱっとその顔は消えた。

 

「旬、“かわ”きたよ、“かわ”!」

 彼女のその無邪気な様子に、俺はそれを見なかったふりをした。

 

 

みなかったことに。

 

その後、無事携帯は返してもらえ、終電間際に俺は大学へ戻った。

 

文化祭に向けて作品を作らなくてはいけないからだ。

当然、彼女との関係もこれで終わりだと思っていた。

 

しかし。

 

 

それから3日後。

 

ピ~♪

 

「旬、携帯なってるぞ!

 11時だし、ちなちゃん、仕事終わったよ電話じゃねーの?」

 

「おー。」

 していた手袋をはずし、携帯を手に取る。

 

(知らない、番号……。)

 

「でねーの?」

 

「あぁ、知らない番号なんだよねー……。」

 

「あ、切れた。

 まぁ、あまりにもかかってくるようだったら、出てみれば?」

 祭はそういって自分の作業に戻っていった。

 

 

その次の日、

大学へ行こうとテレビを切ったとき、それはまたなった。

 

 

ピ~♪

 

(また、あの番号……。)

 

 

 

「はい。どちら?」

 俺は電話に出てみた。

 

「しゅ、旬?

 希和だけど……。」

 

「あー、希和さん。

 ってなんで俺の携帯しってんの?」

 

「ごめん、携帯とったとき、

 番号も貰っちゃった。」

 

「はあーーーーー。」

 俺はその場にしゃがみこむと、頭を抱えた。

 

「ごめん、彼女が心配するからさ、

 電話とか遠慮したいんだけど…。」

 

「あ、そ、そうだよね!!

 ごめんね!

 ちょっと調子乗っちゃったっていうかさ!

 ははははは!

 

 じゃぁ切るね。」

 

 そして、俺は踏み込んでしまった。

 

「なんか、あった?」

 

 

 「希和さん!!!」

 

 彼女には旦那がいた。年上の35歳の。

ミュージシャンをしているらしい。

交際は3年前。

彼が希和さんに告白してきたらしい。

希和さんはそれを「はい。」答えた。

 

そして、1年付き合ったのち、

彼からのプロポーズ。

とても幸せだった。

 

しかし、ミュージシャンの彼は女癖が悪く、

家に何人もの女の人を連れ込んだりするようになった。

 

あげく、音楽活動が上手くいかなかったときは、

希和さんに大声をあげて物を投げてそこらじゅうの物を壊した。

 

希和さんは何とか耐えつつも、

我慢できなくなり1か月前別れの言葉を告げた。

 

彼の答えの代わりに、

物がひとつ犠牲になった。

 

彼女は彼が怖くなり、そのまま家を出た。

 

「来てくれたんだね。

 旬。

 本当ありがとう。」

 

「いいから、で、彼はどこにいるの?」

 

「たぶん、ライブ前だから、喫茶店にいるとおもう。」

 

「そっか、てかその恰好暑くないの?」

 彼女は長袖の薄い緑のカーディガンを羽織っていた。

 

「ああ、大丈夫。

 さっきまで涼しいところいて、寒かったから。」

 彼女は左手を押さえ、少しふし目でそう答えた。

 

「じゃぁ行こう。

 大丈夫?」

 

「うん。

 ありがとう。」

 

 俺は彼女のために、彼女の彼氏としてふるまうことにした。

そして、離婚届を手に、

彼に……サインしてもらうのだ。

 

希和さんには、家族がいなかった。

幼いころに親を事故でなくし、親戚にも見放される始末。

彼女は友達に助けてもらいながら、今まで生きてきた。

 

そして、掴んだ結婚。

掴んだ幸せ。

彼女をこれ以上傷けるなんて、俺は許せない。

 

 

 

カランカラン♪

 

「いらっしゃいませー。

 お二人様ですか?」

 

「あ、いえ、知り合いがいるはずなんです、

 すいません。」

 

 店員さんに告げると、

希和さんはゆっくりと手をあげた。

 

「あいつか…。」

 

 楽しそうに、談笑している4人組。

俺は希和さんの手を握りそこに進んだ。

 

「すみません。

 条林卓哉さんですか。」

 

「あぁ、そうだけど?」

 彼は煙草をぷか~と吸いながら、俺を見た。

 

「希和さんと離婚してください。」

 

「希和~?」

 彼は俺の後ろに隠れていた彼女に気づいた。

 

「あぁ、希和?

 わりい、ちょっと先行っててくれ。」

 

 同じバンドメンバーの3人を帰すと、

彼は俺たちに座るように言った。

 

「で、俺と離婚してほしいと。

 希和?」

 

 希和さんは、彼の方を見ずに、黙ったまま離婚届の紙を

机にだした。

 

「これに、、サインしてほしいの。」

 

彼はそれを手に取ると、黙ったままそれを手に取った。

 

「で、お前は何?

 希和の彼氏?」

 

「ああ。」

 

「…ぷ。

 分かった分かった。

 かきゃいんだろ、かきゃ。」

 

 彼は机の隅にあった、アンケート用のペンを取り、

すらすらと書いた。

彼は鞄から、印をだしぽんと押す。

 

「ほらよ。」

 

 投げられたそれを受け取ると、

俺は希和さんの手を握りしめ、喫茶店をでようとした。

 

 

「希和。」

 希和さんは、びくっと足をとめた。

 

「幸せになれよ。」

 

 俺は彼女の手をひいた。

 

そうしなきゃ。

 

 

彼女が振り向いてしまいそうだったから。

 

 

「旬!旬!」

 

「あっ、ご、ごめん。」

 希和さんの声にはっと目を覚ました俺は、

気づけばあの喫茶店から一駅ほど離れたところへついていた。

ずっとひたすら目的もなく、歩いていたらしい。

 

「希和さん、俺…」

「旬、見て。公園。」

 希和さんが指さした所には、

小さなほんとに小さな公園があった。

 

ブランコと滑り台に、ベンチが二つ、ぽつん。

 

「この辺、結構来たことあるはずなのに、

 まったく気づかなかったなぁ。

 って、いっつも酔ってるからか!

 旬、入ってみようよ!」

 

 ブランコに勢いよく座ると、

漕ぐ音が聞こえそうなぐらい勢いよく漕ぐ彼女。

 

「希和さん、危ないよ!」

 みるみる俺の身長よりも超えて、一回転してしまうほどだ。 

 

「やばーい!

 これ、相当こわいよ!

 旬、助けてー!」

 さっきまでとは正反対の顔で、ケラケラと笑う彼女。

 

そんな彼女につられて俺も自然と笑顔になっていた。

 

「俺もやろー!」

「負けないわよー!」

 それからしばらく俺たちはブランコをこいでいた。

 

 世界がふらふら揺れるそれ。

 

隣で無邪気に笑う彼女と、

心にいるもう一人の彼女。

 

似ているなと俺は思ってしまった。

 

「てぃ!」

 俺はブランコから飛び降りて、地に降りる。

 

「あーやべ、ブランコ怖え…。」

 希和さんも徐々にスピードを落とし、俺の隣に寄ってきた。

 

「ごめん、希和さん。」

 

 彼女を見て、俺はすぐそういってしまった。

 

彼女は微笑みながら、

 

「旬、いいんだよ。本当ありがとう。」

 

そういって、俺に背を向けたのだった。

 

 

 ルルルルルルー

 

「はい、沢谷株式会社です。

 はい、はい。

 …村本先輩、杉津さんからお電話です。」

 

「あ、あぁ了解。」

 

 あれから村本先輩とは、少し照れくさい感じになった。

今までと変わりなく接してくれる村本先輩。

でも私はどこか照れくさくて、今まで通りとはいかなくなっていた。

 

「じゃぁすみません、お疲れ様でした。」

 私は鞄を肩にかけると、

エレベーターの閉じるボタンを押した。

「すみません!

 俺も!」

 

「あっ。」

「あっ。」

 

 慌てて駆けてきた人は村本先輩だった。

「えっと、じゃぁ閉じますね。」

 

 エレベーターの中は、二人。

ここの階は、15階。

つくまで何分――――…

 

「……山岸、あれからどうなった?

 彼氏とは…。」

 

「あ、あぁ…

 なんか制作は終わったみたいで、最近は元通りに。

 なんか拍子抜けっていうかなんていうか…。

 ハハハ。」

 

「お前は、それでいいのか?

 何も聞かなくていいのか?

 お前…」

 

「だ、大丈夫ですから!

 もう、元通りになったんですから!

 万事休すですよ!いえーい!

 なんちゃって。」

 

ピンポーン

 

「じゃ、じゃぁお疲れ様でした!」

 駆けていく私。

なんで私こんなに焦ってんだろ。

なんで、なんで。

 

 

 カツカツカツ。

音を立てて、駅から歩いていく。

曲がり角を3個曲がって、見えてきたのは

 

「ちな。お帰り。」

「旬。」

 

 あなたとボロボロのアパート。

 

「ただいま。

 寝ぐせついてるよ?

 さっきまで寝てたの?」

 

「うん、ふぁー眠い。」

「今日は、カレーだよ。」

「やった。」

 ぎしぎしいう階段をおびえながら上がり、

扉を開けるとそこにはいつもの日常。

 

「ねぇ、ちな。」

「ん~?」

 カレーの準備を始めている私に、

彼がテレビの音を小さくして、私の名前をつぶやく。

「ここでてさ、

 もうちょっときれいなとこ借りてさ

 そんでさ、その、左手につけないー?」

 

「え?」

 

「今年で俺社会人になるから。

 まだちなにとってはガキだろうし、

 おかしいかもだけど、俺ちなと結婚してんだ。

 

 今だって俺思うんだ。」

 

「しゅ、旬…。」

「考えといて!

 そんだけ!はーやべ緊張した!

 風呂入ってこよ!」

 

 知ってる旬?

あなた恥ずかしくなるとき、耳まで真っ赤になってるんだよ。

ほんと可愛いなぁ。

 

 

お前は本当にそれでいいのか?

何も聞かなくていいのか?

 

頭の中で先輩の声がこだまする。

 

「いいんだよ……。」

 

ピピピピ♪

 

あ、この音は旬の携帯。

「旬、電話っ…。」

 

【条林希和】

 

「あっ……。」

 

 私は幾度なく電話をかけてくるこの人が

誰なのかまだ聞けていない。

私の前で、決して旬はこの人に電話をかけない。

 

 

「いいんだよね……。」